/ Episode1


 
 「――あいよ、クロワッサン頭のお嬢ちゃん、きつねうどんお待遠様!」
 
 暦も昨日をもって霜月を迎え、徐々に、それでいて確実に冬の息遣いを身近に感じられるようになった我らが日出る東国、ハポン。これから確実に訪れる急激な冷え込みを万全に迎え撃つため、全国津々浦々でトルマリンが全体の1%しか入っていない羽毛布団が引っ張り出されたであろう最近では、『今年の冬は此処数年で最も凍える! 今度こそ間違いない!』と仰々しい身振りで伝えた某バラエティ型気象予報士4423のやっぱり信用性が見受けられないコメントにさえ恐れを成したのか、使い捨てホッカイロなどの手軽に温暖効果を生む日用雑貨が飛ぶように売れていたりする。
 
 現実、その異常な売行きときたら凄まじいもので、『超やべえ!』といった現代っ子にとっての最上級の表現すら生温く感じられ、人々の生活の基盤としてすっかり欠かせない存在となった7で始まるコンビニエンスやら7で始まるスーパーマーケットやらでは、商品棚にそれらを並べるや否や、次の瞬間、棚がもぬけの殻に――、なんて超常めいた現象が相次いで起こっているそうだ。個性豊かな老若男女は口を揃え、そして長ったらしい前髪で片眼を塞いでいるライクに驚きの声を挙げる。なんてこったいべらぼうめ。マジでガッデム。超有り得ないんですけどお。などなどと。
 
 捲土重来、疾風怒濤。さながら全盛期の卵型玩具に匹敵する品薄ぶりには、日頃は彼の天気予報など狼少年のそれ程度にしか信じない癖して、どうしてこういったときに限り、当たるかどうかも疑わしい厳冬宣言を鵜呑みにしてしまうのか……と嘆かずにはいられない方々が果たして何百万人といることだろう。その根本となる石油の高騰化も依然収まらず、相も変わらず政治力が弱いこの国のお偉いさん達は見え見えのマネーゲームの連敗記録を伸ばすばかりなのだから、何気なく吐き出した白い息に呆れと怒りとが存分に込められているとは言を俟たず。
 
 ごく僅かな金に翻弄されるメディアが頑なに隠そうとしている真実を誰が暴けるか。
 我が国の人間とはとても思えない醜女が見せた「そうでしたっけ? ウフフ……」だなんて薄気味悪い笑い声、それとともに跳ね上げられた泥を被るのは、いつも決まって国民なのである。大した紆余曲折も無く高額な石油取引をせしらめられる状況に追い込まれてしまった昨今、何の気も無しにストーブに火を入れていた時代と泣く泣く決別し、ホッカイロ戦争なる神隠しとしばらく付き合っていかなければならないこの悲しさをどう言い表せばいい。
 まったくやれやれじゃないか。僅かな利益どころか、マイナスのヴァイブスしか鳴らさないアジア外交に力を入れるよりももっと他にすべきことがあるだろうに。現に、みんながみんな逼迫した経済情勢に憂慮したおかげで、ひとり単位に行き渡る使い捨てホッカイロの量が増えてしまったのだから、ホッカイロ争奪戦に敗れ続けている側の人間としては一刻も早い解決を望むばかりだ。
 
 はてさて、少女はたとえばグラウンドに面している窓硝子の向こう側にフォーカスを定める。
 朝方、眠い眠いと欠伸を噛み締めながら通った並木道は、――意地悪く下校時間を見計らったのか――今頃になって冷たい風を撒き散らし始めたみたいで、綺麗に列を為している桜の木々が絶えず右往左往している。びゅーん! びゅーん! と激しい音を立てながら風は食堂と外とを隔てる大ガラスを揺らし、この桶屋が儲けそうなくらい強い風の動きを眺めていると、『もしかしたらもしかすると、体重の軽い人は月に向かって自転車を漕いでいけるかもしれないな』とかなんとかメルヘンチックな思考に偏頭痛持ちの難儀な頭をシェイクされてしまう。
 
 まるでかのビュッフェの絵を重ね合わせてしまう、所々葉を落とした半裸姿の楓の枝。その隙間だらけの枝の間からは冬独特の薄暗い空が見えた。見上げるだけで四肢を寒々させる冬の空だ。毎年必ず、来ないでいいのに図々しくやって来やがる、そしていつも懐かしい感じのする灰色のカーテンは、湿り気を帯びた空気の匂いとそれが暖房に乾く匂いとで三幅対になっており、ともすればカレンダーの大文字が十一の字を刻む都度、人は懐かしさと煩わしさの両挟みに苦心するのである。
 
 ――ただ、眸が映す寒ったらしいことこの上ない景観とは裏腹に、一日中暖房の効いた場所に身を置いているともなれば、温かい食べ物や飲み物を真に美味いと思うにはまだまだ時期尚早で。
 
 「あ、あの、クロワッサン頭ってもしかして私のことでしょうか?」
 「なに自分を指さしてキョトンとしてるの。一度周りを見渡してごらんよ、あんた以外にそんな面倒臭い頭をした人間は居ないでしょうが。そりゃあんたから見れば相当なババなあたしだけどね、まだ案山子に向かって言葉を投げるほど耄碌しちゃいないんだよ」
 
 ははん、そうですか、二つ返事で私を侮辱ですか、ああそうですか、どうせ私は馬鹿にされやすい身形をしていますさ、正真正銘の事実だけに否定はできませんよ、などなどと内心毒突き、しかしスカイツリーばりに尖った意識をすぐ別のところへ移す。確かにクロワッサンにも見えなくもない、華奢な体躯にはそぐわない長い髪を後ろで一つ束ねている女の子は、古き良き時代のキオスクもびっくりな、年輩者らしい淀みない動作が目を惹くおばちゃんより手渡されたきつねうどんが放つ熱気を見るなり、自身がある意味で重大な選択ミスをしたのだと気付かされたのであった。
 
 桜色に鮮やかなぷっくら唇が、への字から△へ。
 キョトンとした顔の頭上にはでっかいエクスクラメーション・マークが浮かぶ。
 
 霜柱を踏締めたときに耳を打つさくさくという小気味よい音が日常化してきたとはいえ、未曾有の不況に苛まれる現在の日本に手袋を投げ付けるよう、空調設備が過剰なまでに整っている此処撫子学園に於いては、飲み物や食物から暖を取る必要性はほとんどなかった。従って「寒いから、温うどん」の連想ゲームは完成しない。むしろ辺りにはかき氷を美味しそうに頬張っている生徒が何人か見付けられるくらいだ。
 
 もしや、つい数分前まで居眠りをしていたから頭が覚醒しきっていないのかもしれない。

 「……うっわ、ばっかみたい私」
 
 両の細腕に掛かる、微妙な重さ。この重さが示すところは果たして、とは少々オーバーか。わざわざ持ち上げたトレイを一端カウンターに置き直してまで頭を掻き毟ろうとは思わないけど、自分の行動のアホさ加減に少女は二つの意味で凹まずにはいられなかった。
 なにやってるの私。どうしちゃったの私。口笛は何故私を待っているの私。
 世界規模で見ずとも、自分が如何にくだらない自問自答をしているかは自覚している。
 たかだか三百円程度の僅かな金銭に後悔していることは、ひどく吝嗇な気風に見られそうでなんだか後ろめたいし、然れども、自戒したくなる失態を呈したことにも変わりなく、特に南の島ライクな空間に身を馴染ませた今となっては、いくら吐き出す息がささやかな化学反応をもたらす季節だろうと、湯気を猛々しく立たせているきつねうどん(学食人気ランキング34位)を無かったことにしたくてたまらない。
 
 というわけで、自分で頼んでおいてアレだが、如何に成敗してくれようか、この仇敵。
 眼下に堂々と控えるうどんを、少女は線のように細い目で見据える。スッと浅く吸われた呼吸はさながら真剣を鞘から抜かんとする武士だ。なんだこいつ、とは自分でも。
 ましてや、いくら凄味のある睨みを利かせたところで、湯気が萎縮して引っ込み、そのまま冷たいそれに変化するといった寓話風味の展開には進まない。顎に逞しい白髭を蓄えた聖夜の使者に現を抜かす年頃ではないのだ、そんなもの少女とて熟知している。なにしろ、想うだけで自らの願望が具現化されるのなら、自分のすっげえ貧相な四肢(特に胸)はとっくのとうに超絶ぐらまらすに変化しているはずだ、と。
 うーん、ううーん、むーん……と唸りつつ、更に窄まっていく目。それとメトロノームみたいに左右に振られる頭。後ろ髪を一手にまとめる青色のリボンが少し斜めに傾いている。
 そもそもだ。冬だとか外が寒いだとかの季節感は抜きにしても、自分は温かい物を相当苦手としていたではないか。自販機が吐き出す缶コーヒーすら満足に飲めない猫舌の自分が、熱いうどんを食べたくなったこの不思議、自分にすら解けない謎がいったい何処の誰に解けよう。
 
 一方、カウンターの前で物思いに耽っている少女を、先程クロワッサン頭と罵ったおばちゃんや後列に控えていた生徒達が、珍しい昆虫でも観察するふうに訝しげに見つめている。ざわざわ……ざわざわ……、とお馴染みのBGMを発しながら、彼らの視線は立ち尽くす少女にロックオン。
 
 どんぶりの中になにかおかしなものでもダイブしているのだろうか?
 はたまたオーダーを間違えてしまったのだろうか?
 
 少女に続き、頭の上に大きな疑問符を浮かべたおばちゃん(来月二日で還暦)は、受け取った食券を今一度確認してみるも、しかし其処にはしっかりときつねうどんと記されていた。ならば、どうしてこの子は背後に控える大行列も何処吹く風で突っ立っていられるのだろう。顔を思いっきり顰めたおばちゃんは剣呑そうに首を捻った。そしてこの姿が、真剣な眼差しでうどんと睨めっこしている少女と相俟り、なんとも歪な光景を創り出す。
 
 それから十秒、二十秒、一分と着々と時間は少女達を通り抜けていく。
 にも関わらず、うんともすんともにゃんとも言わず、或いは列に気を遣って横にずれるわけでもなく、ただただカウンター前で黙々と直立不動している少女の様子に、最初は心ばかりの好奇心を抱いていた周囲も流石に苛立ちの色を募らせていく。
 
 おい、誰かあいつに声掛けろよ。え、俺? いやいやお前が行けよ、お前の方が前にいるじゃねえか。ああダメダメ、俺人見知りだからそういうのNGなんだよ。
 
 入り口付近に設えた壁掛け時計の針はそろそろ十三時を廻ろうとしているところだ。
 誰かが勇気ある一歩を踏み出さなければならない。一刻も早く腹の虫を黙らせるためには誰かが彼女を止めないといけない。このまま声を掛けずに放って置けば少女はいつまでも奇妙な一人遊びに興じていそうな、そんな確信めいた予感がその場にいる誰しもの脳裏を過ぎったから。
 かといって、慎ましさが売りの日本人では、その誰かが現われる瞬間は一向に訪れず、且つ、考えを巡らせるたび周囲が見えなくなりがちな少女が周囲の様子に気付くはずもなく、疑問符だらけの沈黙を乗り越え、彼女が熱々のうどんを物憂い手付きで持ち去ったのはたっぷり五分は経過した後となった。
 

 
 
 ※ ※ ※

 
 
 
 「四時限目は暖房完備の図書館で自習。室温は二十七度。身体はほっかほか。つまり、どう考えても場違いよね、こいつ。…………ホントどうしよう」
 
 空腹に堪えかねる周囲の空気を読まないまま行ったしばらくのフリーズも終え。誰でもない誰かに自分が置かれている状況を説明するように少女はひとりごち、やがて緩やかなる歩を進め始める。
 一歩目。暖かい場所で一時間丸々眠っていただけに身体はもはや温かい物を求めていない。それどころか冷たい蕎麦を胃の中に収めたい衝動に駆られ始める有り様。自分でも呆れるくらい我が儘な身体にはどんより溜息しか漏れてこない。
 だけれど、逆境打破を可能とする得策を練ってみても、脳裡に浮かぶ選択肢はうどんは胃の中に押し込むほか存在しないため、新たに食券を買い求める意欲など湧かず。仮に二つ目の選択肢が在るとすれば廃棄行きか。いいや、そんな罰当たりな真似はもしもの話ですら有り得ないのだけれど。
 
 「結論、どうしようもないわね」
 
 二歩目、三歩目。そう、どうしようもない。しばしの黙考など、ただ現実とアウェイ&アウェイしたかった気持ちを尊重しただけ。
 目的地が予め設けられていた堂々巡りに諦めを寄越した少女は、見るからにカクカクしていた眉を柔らかく解いた後、決して優れているとは言い難いお目々を懸命に凝らし、これから腰掛けるべく座席の捜索に当たる。俗に言う、病は気から、とやらに倣うわけではないけど、目に入る景色がうら寂しければ温かい物も美味しいと思えるかもしれない。中途半端な想像力が世知辛い現実をリードするときだってきっとある。
 
 右、左、右とイメージは相手国の秘密要塞に侵入したモノアイロボットのそれ。低視力特有の、ガンを飛ばしているとしか考えられない鋭い眼差しで辺りを睥睨する少女の姿は、ハリネズミみたいにツンケンした振舞がスタンダードなだけあり、たまたま視線が合わさったに過ぎない少年少女達は往々にして萎縮してしまうのだった。少女は考える。このように尖った居住まいを直さないでいるからこそ、自分の預かり知らぬところで“不良少女”“触るな危険、でも触らなくても危険”“超高校級のドS”といった自分の素性から懸け離れた悪評ばかり広まっていくのだ。
 
 
 「うん、しょうがない、窓側の席にしようかしら――あッ!? うえええ!?」
 
 
 ところが、ようやくすべての状況を整理し終えた少女を次なる不幸が待ち受けていた。
 
 今日という今日はつくづく失態を重ねる日である。しかも二個目の失態は先代を遙かに凌ぐものであるからにして、少女は盛大に肩を竦めずにはいられないのであった。そしてキューティクルにカールした睫毛を何度も瞬かせ、こう呟くのだ。「嘘でしょ……」と。
 すぐさま頭の中に鳴り響く、ジャジャジャジャーン(↓)。大袈裟に言って彼女は戦慄した。闇夜に包まれる洋館に雷が落ちた。たかが食堂で戦慄とは馬鹿らしく受け取られても無理はないけど、事実今度のミスは致命的だった。
 
 土曜日の今日は授業が午前日課で終えられたためか、食堂が普段とは数段も盛況していたのだ。故に右を見ても、左を見ても人の山。耳をつんざく喧噪の大きさからもわかるように、現在の学生食堂は、雑誌に掲載された超人気店の如く隙間無しに同じ制服で埋められていた。
 それは来たるべく部活に余力充分に挑むため、しっかりと腹ごしらえを済ませる者や、これから何処へ遊びに繰り出すか仲間内で相談している者。図書室を拠点とする受験勉強に備え、昼食を手短に済ませようとする者もいる。数こそは少ないが教員の姿もちらほらと確認できる。
 
 普段と異なる賑わいを見せる学食を前に、「どうしてこんなことに……」と恨めしがってしまうのも無理はないが、本日に限った話で言えば、むしろ自分の方がこの場に相応しくない。なにせ、上述の人々とは対照的に、部活動や委員会活動に別段所属しておらず、そのうえ試験期間でもない時期に少女が学食を積極的に利用する理由はこれといって見当たらないのだから。なにを隠そう、彼女の数少ない自慢の一つに、未来永劫スケジュール帳が真っ白というかなり切ないモノがある。
 
 通例、午前授業の日の少女は、終業の鐘が鳴り響くと同時に校門を目指す競歩を開始する。
 人混みに身を置くことを好ましく思わない性分としては、意味もなく学園をうろうろして時間を潰すよりも自宅で本を読んでいる方が全然功利的だし、悲しいかな、進んで交友関係を築こうとしない性格が祟り、放課後一緒に街へ赴いてくれる友人などナッシングだ。誰とも出掛ける約束もしていないのに、二日置きくらいにローカル雑誌で観光地探しに目を光らせている姿など絶対に撫子学園の同輩達には絶対に見せられないし、見せたくない。もし見られたらその場で腹をかっさばく覚悟さえある。
 
 そんな窮屈な世界に閉じ籠もった自分を、「随分と高校生らしくない寂しい週末を送っているもんだなー、こいつ」と他人事みたいに気の毒に思ってしまう一方、ジェットコースターの身長制限に引っ掛かるお年頃から似たり寄ったりの春夏秋冬を繰り返しているので其処はもうカッチリ割り切れている。……時たま、寂しさに堪えきれず、部屋の隅で体育座りしてしまう日もあるけれど。
 
 「むー」
 
 ああもう、うどんの行方と椅子取りゲーム、そして己のロンリーぶりにトコトン傷心だ。
 依然お腹は可愛らしく呻き続けており、早く燃料を投下してくれと乞うてくる。しかし体躯を据えられる場所がなければどうしようもない。真夏の海水浴場を連想させる、このあまりにも濃すぎる密度ではすぐに胃に食料を与えることは叶わない。いっそ隅っこの方でエアーチェアに腰掛けてみようか。いやいや、この軟弱ボディでそんなタフなチャレンジができるわけないってーの。スタートと同時に心と身体の両方が折れるわ。
 
 こうなってくると気分はすっかり学者様だ。一頻り辺りを確認した後、胃の中の空気をすべて吐き出すような大きな溜息を一つ、ふん詰まった現状を打開すべく賢明な考えを練り始める。
 絶賛繁盛中の学食を見渡す限り、席が空きそうな気配はとんと窺えず、視界に入る学生は銘々有意義そうに自分達の時間を過ごしている。中には食事はすでに済ませていて、いつ席を離れるか読めない雑談中の生徒の姿もあるが――、仮に彼らが席を発ったとしても自分が其処に腰掛けられる保障はない。運動神経の絶望的な乏しさを計算に入れると、情けないことに自分が椅子取りゲームに勝利する光景などとても思い浮かべられない。接戦を演じての敗戦どころか5回コールド負け確実である。
 とどのつまり、此処で無益にだらだら粘り続けるよりも、コンビニエンスか弁当屋辺りで手短な総菜を買って帰った方が手っ取り早く飢えを凌げそうな感がある。
 
 基より喧噪とは真逆の闃然とした空間に居心地の良さを覚える人間だ。値段に釣られて学食を利用しようなどと考えず、最初からそちらにしておけば良かったのだ。重視する点はお金じゃなく、時間だ。時はお金じゃ買えないってモノクロームに沈んだ誰かも仰っていたではないか。

 でもでもその考えを選ぶとなると……、
 
 「仕方ない、か。食べ物を粗末にしちゃいけないって母様からきつく言われていたけど、時にはTPOに左右される場合もあるのよね」
 
 うんうん、と頷き、数秒を要した脳内裁判の末『帰宅』という判決を出した少女は、いつの間にやら閉じていた眸をクワッ! と開き、とみに踵を返した。こうと決めたら実行は早い。少女の脳裡にはすでに馴染みのコンビニ弁当が浮かんでいる。レンジで熱々に温めた中華丼弁当がだ。
 
 それなのに少女の歩調は、食堂の食器返却口へ数歩ほど向かったところで緩まっていく。ホップ、ステップ、ジャンプとルンルンと一歩目を踏み出した時の気分はどこへやら、滑り出しこそ順調だった足並みは徐々にスピードが落ちていき、次第にぴたりと足が止まってしまった。
 答えは至ってシンプル。コンビニに鞍替えするにあたっての障害はやっぱりうどんの行方だ。食べる場所を得られなければ当然捨てるしかなく、学食の混み具合を確認しないまま注文した自分が悪いとは重々反省している。だからって、一切の手を付けずにうどんを返却するのも作ってくれた方々に申し訳ないし、飢餓に苦しむシエラレオネ国民を思うと胸が痛む。住んでいる場所は違えど自分達は同じ宇宙船地球号の乗組員なのだ。万物が与えてくれるありとあらゆる恵みに感謝し、決してそれを無駄にするような行為に及んではならない。
 
 
 「だから一周……、そう一周。学食を一回りして何処も空いていなければ素直に諦めましょう」

 これしかない! しょうがないのよ! いつの時代にも犠牲はつきものなの! と尚も葛藤に抗いたがる自身を妥協させるよう言い聞かせ、右足のつま先を床にノックさせる少女であった。
 僅かな隙間さえ見られない密度の濃さを考慮すれば、空席を見付けられる可能性は一縷に等しい夢物語かもしれない。時間に重きを置こうと決めたにも関わらず、それらを台無しにする行為を自分はやろうとしている。だが、そうと知りつつも少女はメリーゴーランドのようにゆったりと足並みで学食を円周し始めるのだった。
 
 
 
 
 
   
    ※※※※※※※※
 
 
 
 まったく都合の良い話である。在るかどうかも定かではない空席を探して、探して、探して、そして未捜索エリアが最後の一列に差し掛かったとき、幸いにして偶然にも少女の目の前で席を立った者が現われたのだから。
 瞬間、予期せぬ幸運の到来に心から歓喜した少女がひどく柔らかい表情を浮かべたのも無理はない。
 目の前も目の前、もはや目と鼻の先の距離じゃないか。最高のポールポジションに位置づけている今、誰かに先を越される心配はほぼ消え去った。すなわち、うどんの廃棄処分もめでたく取り消しとなったわけだ。
 
 こ、これは貰った! これなら超弩級の運痴の自分でも勝てる! ありがとうございます! 皆様の暖かい支援のおかげで藤浪朋子当選いたしました!
 
 嗚呼、さようなら愛しのコンビニ弁当。
 またお会いしましたね、いつの間にかやたらめったら伸びきっているきつねうどん。
 こんな本人ですら意味がわからない一人キャッチボールを繰り出しながら、少女は弾んだ足取りで空いた席へと歩み寄っていく。椅子探しに時間を掛けすぎてしまい、肝心要の味に期待はできなくなってしまったけれど、どれもこれもお腹に入れば結局行き着くところは例の場所なのだ。
 
 ……が、その幸福も束の間、
 
 「空席を見付けたと思ったんだけど、とんだ気のせいだったようね。これだから視力0点台は嫌なのよ。ああ、嫌だ嫌だ。席も見付けられなければ、現実も見えないから困る」
 
 一体全体どんな心境の変化なのだろう。少女のあんなにも柔らかかった面差しは、すぐさまいつもの憮然としたものへと変わり、挙げ句、素知らぬ顔で空席を通り去ろうとするではないか。それも決して右を見ないよう気を遣っているらしく、あからさまに不自然な歩き方である。右、右、右、左、とかなり偏ったステップワークはまるで壊れたロボットのよう。
 
 「さあて、何処にも空いてる席はないようだから帰るとするかしらね。うっわ、うどん超勿体ないわ。でも席が無いんだからしょうがないもんね。エアーチェアに堪えられるほどの足腰もしてないし」
 
 おまけにわざとらしい科白をわざわざ声に出して言う。しかも太い声で。
 演技経験がゼロの、ずぶの素人をいきなり舞台に上げた、あの表情と声質が揃っていない歪さにようく似通っている雰囲気を醸す少女は、果たしてなにをおっ始めるつもりなのか。
 
 「いやいや、其処の可憐なお嬢さん。見たところ目付きだけでなく視力も悪いようなのでお教えしますが、貴女の目の前には偶然にも一つだけ空いている席がございますよ?」
 
 しかしその奇怪な行動もこうなってしまうと自然に思えてしまう。だって、無理矢理通り過ぎようとしている少女を引き留めようと、何処からか相槌を打つ声が聞こえ始めたのだから。
 知り合いが珍妙な行動を取っていれば、とりあえず語り掛けておくのが当たり前なのかもしれないが、現状を語る際には、此処撫子学園には、少女に言葉を投げ掛けてくれる友人が極端に少ない点を補足しておかねばならない。……全米驚愕の悲しさのあまり涙がちょちょぎれてしまうが。
 
 「それはきっと気のせいね。ほら、裸の王様ってお話があるじゃない? 王様が在りもしない見えない服を着こなすアレ。そいつと一緒で、たとえ其処にあんたが主張する主を持たぬ席があったとしても、一般人である私には残念ながら視認できないのよ。ちなみにこれは私の独り言だから返事は要らないわよ。覚えておきなさい、藤浪朋子はクールにこの場を去るの」
 「ならば、論より証拠って奴で試しに腰掛けてみてはどうでしょう? 其処に誰か座っているので在れば御嬢様は臀部にそれはもうしっかりとした違和感を覚えると思いますよ」
 「私、そういう無駄な挑戦意欲は無い子だから」
 
 言うなら炉端で野猿にでもバッタリ出会したかのように、決して“それ”とは目線を合わせずにしっしっと手を振る。或いは、しつこい宗教勧誘を断るふうな口振りで、不意に話し掛けてきた男を背にしようとする。
 ついでに「あらあらもうこんな時間だわ、これ以上道草食べちゃうと門限に間に合わないの」などとまたも意味のわからないコメントを残し、ストップさせていた両脚に猛スピードでの再起動を促した。
 脳裏に描くイメージは一迅の風。マシンガンを小脇に抱えての疾風の如き突貫。いきなり自分なりの全力を出そうとしたため、その勢いから膝下30cmに揃えられたスカートが少し捲れそうになるも、少女はまったく気に留めようとしない。人は危険を察知したとき、普段の自分からは想像できないほどの力を生むと言うが、どうやら本当らしい。このときの彼女であれば、もしかしたらジャマイカさんちのウサイン君よりも颯爽と駆け抜けられるかもしれない。
 
 「痛たたたたたたたたたたたたたたたたたっ!」
 
 でもこれこそが叶わぬ夢。人の夢と書いてどったらこったらのアレ。いわば此処は男のテリトリーなのだ。蜘蛛の巣に掛かった蝶が五体満足に逃げられるはずもなく、しかしまわりこまれてしまった! といった具合に、少女の栄えある第一歩は男の予期せぬ妨害によって緊急停止させられてしまった。
 
 「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとあんたっ!!!! え、なにそれ箸! 箸!? 乙女の髪の毛を食べかけの箸で摘むなんてどういう思考回路してんのよっ!!!???」
 
 そのボリュームは最大マックス。知らぬ存じませぬこいつは赤の他人ですハイを決め込み、一迅の風の如く場を後にしようとした少女であったが、しかし彼女の感情はアッという間にフルスロットルとなり、高速反転。自分の足並みを止めた正体を見極めては、更にバーニング。まさに瞬間湯沸かし器もビックリに、半径10m以内にいる者すべてを恫喝せん強烈な咆吼を挙げ、椅子に座っている男の右太股へ怒りのローキックを放つ。少女の背後で地獄の業火がメラメラと猛っているのはたぶん目の錯覚ではないはず。
 
 「おっとすまんすまん、てっきり皿の上のエビフライが逃げたものかと勘違いした。おにぎりがコロコロ転がっていたアレ同様にな。あっはっは、俺としたことがこいつはとんだうっかりをしちまったもんだぜ。まあ、こういうドジな部分が数多多くのレディーの母性本能をくすぐるのかもしれんね」
 「んな馬鹿な話があってたまるか!!」
 
 ふざけんなコイツ! いい加減にしないとこっちの怒りも有頂天だぞオラ! とばかりにビシバシとのべつ幕無しに繰り出される少女の黄金の右足。頭は真っ白。考えるよりもまずは身体で反応。乙女のプライドと男への憎しみを利き足に込め、ひたすらと右足を振り抜くのみだ。
 それでも所詮は病弱少女の全力であって、ちょっと大人しめな女の子のキックよりも威力は幾分も劣る。現実、エンドレス・ニーの標的となった男は、「お前の会心の一撃などこれっぽちも痛くないわ」とでも言うように、尖った八重歯が覗き見えるほど口を大きく開けて笑い、アメリカ人みたいに額をペチンと叩いている。散切り頭の青年が少女をおちょくっているとは確定的に明らかで、このとき、彼の隣でひっそりと食事を楽しんでいた眼鏡の生徒は頭の中でこう呟いたという。「店長、五番テーブルにガソリン1リットル入ります」と。
 
 「ああああああ揚げられたエビが独りでに逃げるわけないでしょ! しかもあんたの皿にゃエビフライなんてひとつも乗ってないじゃないの! それ信頼と安心に富んだB定食じゃない! いや、それよりも言わなきゃいけないことがあるでしょ? 当然あるわよね! 女の子にとって髪の毛は命の次に大切な宝物なんだからね!」
 「おお、藤浪。お前これから昼飯か。こりゃ奇遇だな、実は俺も今から飯なんだよ。んじゃ、昼時に出逢ったのも神様の御加護ってなわけで、これからお兄さんと一緒に楽しい食卓を囲まないかい?」
 「ご飯に誘って欲しいわけじゃないわよ! 大体なによ、その覇気も無ければ悪気しか感じられない超棒読み! あんた私のこと舐めてんの!? 友達ひとりも居ないからって舐めてんでしょ!?」
 

 肩、唇、眉ら主要パーツをわなわなと震わせれば、手にしているトレイもカタカタと連動する。
 たとえるなら震える山。一つ一つ積み重なっていく怒りのバロメーターが目に見えるのであれば、きっと今頃彼女はキンちゃんから金メダルを渡されているだろう。何故って誠意の籠もった謝罪を求めたところ、お昼御飯に誘われた。コレに怒らずしてなにを怒ると言うのだ。彼の今の返しは、全盛期の伊藤の高速スライダーも驚愕の曲がりっぷりだった。しかもすっげえ悪い方向へ曲がっていった。
 
 「おいおい俺が生徒を見下すわけないだろ。変な言い掛かりはやめようぜ。英国紳士すら崇めるジェントルメンに向かって失敬だぞ。不良生徒のお前は知らないのかもだけど、俺は受け持つ生徒すべてを慈愛の眼差しで見守っていると有名なんだぜ」
 「何処が紳士よ、この腐れ変態教師めが!! おおおおおお乙女が毎朝一時間も掛けてセッティングしている髪の毛を、ははははは箸! ましてや使用済状態の奴で掴みやがるなんて……うぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ!!!!!」
 「こら、トレイを持ったまま地団駄を踏むのはやめないか。さっきから片手だけで持ったり、俺の膝小僧を蹴っ飛ばしたりと行儀が宜しくなくてよ。頭に酸素がいってないのか、顔も真っ赤じゃないか。もっと落ち着きを持ちたまえよ」
 「あんたは今し方それ以上に行儀が悪いことをしたのよ! 自覚無し? 正気? ハッ、ああ、やだやだ! これだからどっかの誰かさんみたいにデリカシーや常識がない性格の人間は嫌なのよ!」
 「いやいや埼玉県民と鳳仙エリスの悪口は止してくれ。あいつらにだって髪の毛一本程度くらいのモラルはあるんだ」
 「お前の話だよ馬鹿!!!!!!」
 
 ああ、もう、噛み合わない噛み合わない。ボタンの掛け違いどころか、ボタンを引き千切られたレベルに達してしまっている。もしくは初めからボタンなど存在しないのかも。
 乙女の髪を汚した件についての謝罪を寄越すわけでもなく、むしろニヒルな笑みを浮かべてクックと喉を鳴らしているのだから、男が朋子とエビフライを見間違えたのではなく、故意にそうした行動に打って出たことは火を見るよりも明らかで。……いや、だいぶ特徴的な髪の毛をしているからといって、本当にエビフライと見間違えられる人間がこの世に存在するはずないとは分かり切っているのだが。たった数分前にクロワッサンと馬鹿にされたけど、あれは偶々である。鳥取砂丘で星の砂を見付けるようなものなのである。
 
 「――うぬぬぬぬぬぬぬ!!!」
 
 こめかみに細かな皺を寄せ、朋子はギリリッ! と忌々しく唇を噛み締める。緻密に作り込まれたビスクドールみたいにこぢんまりとしたプリティフェイスが、今じゃ燃えさかる火炎に飲み込まれた雷神像のように修羅場っている。それでもなお、駄馬のそれ同様、馬鹿の耳に説教がまったく効果的でないとは彼女も経験上痛いほど身に染みているため、ふつふつと込み上げてくる憤怒の感情を耐え忍ぼうと懸命にトライ。
 
 笑え、笑いなさい朋子。ピンチのときほど不敵に笑うのよ。ギアナ高地でシュピーゲル兄さんに教えられた淑女の精神を思い出すの。英国淑女はスカートめくりされたって微笑みを崩すことはないじゃない。
 やはり小刻みに震えている右手を貧相な胸元に添え、少女は反芻するよう自分へ言い聞かせるも、人一倍感情に素直な子が湧き上がる怒りに抗えるわけがない。見てみろ、無理矢理に笑おうとした過程で誕生したのが、左側般若、右側女神の奇跡的な表情である。決して泣かまいと気丈に振る舞う子供に、己にも確かな死が迫っていることをハッキリ感じさせるクオリティーをロールアウトだ。
 
 一方、少女が再度地団駄を踏まんばかりに憤慨する傍ら、隣席の男子生徒は、悪戯っ子こそが世に憚るとでも言うような男の一挙手一投足に「流石だな」と感嘆せざるを得なかった。無視を決め込んでの退散を目論む朋子を、一瞬でカッカさせ、あまつさえ自分へ突っ掛かってくるよう仕向ける辺りに、彼が如何に彼女の扱いに手慣れているかが顕われている。円熟味溢れる業、ヴェテランの味と評すればいいのか。この男はたぶん藤浪朋子の取扱説明書でも持っているのだろう。
 
 小中高と彼女を受け持った教師すべてがアッサリと匙を投げたほど朋子は扱いづらさに賭けては天下一品。馬も、馬、超絶跳ね馬だ。古くさいドラマに影響され、如何なるじゃじゃ馬も更正させてみせると豪語する熱血新任教師桔梗霧の図太い精神を、十八番の鋭鋒でズタズタに切り裂いた『Kの悲劇』は全校生徒の記憶に新しい。どうしたらそんなにも次々とマイナス単語をひねり出せるのか不思議になるほど千の言葉を用いて罵る様は、もはや毒舌という悪い表現を超え、誰しもを感動させるアートの域に達していた。余談だが霧は二週間引き籠もった。どうでもいいか。
 
 「まあまあ、そんなにもカッカしなさんな。お前さんのことだ、どうせロンリーランチなんだろ? ここは大人しく俺に付き合いなさいって」
 「暇そうに見えて悪かったわね。でもお生憎様、あんたの相手をしているほど私も暇じゃないの。――ああ、一つ警告しておくけど、次おかしなアプローチを仕掛けてきたら容赦なく死なすわよ?」
 「おっと何処へ行く藤浪。まだ俺の話は終わってないぞ。というか始まってすらいねえよ」
 「痛たたたたたたたたたたた!! くっそ! 舌の根の乾かぬうちにやりやがったこいつめ!!」
 
 退散しようとする朋子と、それを許さない男。話はまた数スクロール前へと遡るわけだ。
 いくら強めに警告してもやはり暖簾に腕押しで、今度は箸ではなく、両の腕で頭部をガッチリ掴まれてしまった。ちなみにこれも毎度のことだ。私はUFOキャッチャーの景品じゃない! とやはり真っ赤な顔で抗議した日は数知れず。ここ最近は頭をむんずと掴まれることが日常化しており、……またしてもくだらない策謀に嵌り、そして拿捕されてしまった己の不運ぶりを、ゴム人形ライクに両頬を引っ張られながらただただ悔やむ朋子であった。
 
 「両手を天に掲げ、かーみーさーまー、って言ってみ?」
 「はあ? なにそれ?」
 
 ひとしきりの頬の引っ張りから解放された顔を目一杯歪め、小馬鹿にするように問いつつも、結局彼の言われるがままに空に両手を挙げてしまう少女。
 
 「最近見た映画の影響。知らないか? おもちゃが自分の意志を持っているって話。恥ずかしながらアレ見て泣いてしまってな。まさか3Dメガネが涙を隠す道具になるとは予想だにせんかったぜよ」
 「くっだらない。そんな子供向け映画の話よりもより、あんたが恐れ多くも掴んでいる恭しき私の頭をとっとと離しなさいよ、ほら、離せこん畜生めが!」
 
 ケッ! と口をへの字にひん曲げ、更には、こちらへ謝罪もくれず、平然と自分の頭部を好き放題やっている無礼者にだけ聞こえる音量で露骨な舌打ちをする。そのついでで、何事かと好奇の眼差しを向けてきた生徒達を文字通りの殺さんばかりの剣幕で睨み付けた。彼女なりの悪態のフルコースだが、その殺意が籠もったアクションが観衆には効果的でも、肝心要の相手にゼロイミなのはいつものこと。
 
 「くっそ、この場に名前を記しただけで人間を殺せる例のノートが在れば……デ○ノートさえ持っていれば、あんたをノートの角っこで思い切りぶん殴ってやるのに……」
 「明らかに使用方法を誤っているからな、それ。角で打たれると痛いことは確かだけどよ、わざわざデスノートである必要無いだろ、このお馬鹿さんめ」
 「人の頭を散々弄んだだけに飽きたらず、ついには頭の中身まで否定しやがったわね……!」
 「軽くからかわれた程度で涙目になるなよ。相変わらず打たれ弱い子だな」
 
 さて、ポニーテールの少女に仇敵と見なされているこの輩。
 両親から授かった名は上倉浩樹と言い、一応は此処撫子学園に勤める教師である。受け持ちの科目は美術。部活は美術部。稀に副担任として朋子の学級を訪れるケースもあるが、彼の姿はほとんど美術部でしか見られない、ある意味で151匹目に相当するレアな存在だ。ちなみに付属させた“一応”という副詞にも相応の理由が存在しており、浩樹は聖職者とは思えないほどちゃらんぽらんな生き様をしていることで有名だった。
 
 今から五分前に遡ってもそうだ。席を探し続ける朋子の目にまず飛び込んできた光景は、先程まで眠りこけていたことを明確に示す逆立った髪の毛だった。岩トビペンギン張りにもうぼっさぼさのぎっしぎし。次に捉えたのはこれまた寝起きだからなのか、まともに着こなせていない皺の寄ったシャツ。当然室内用の靴は踵が潰されている。
 
 ……幼稚園児かあんたは。頭のてっぺんからつま先に至るまで、とにかく全体的にだらしない風貌をしている浩樹に目を窄めざるを得ず、また、性格の噛み合わせ的に絡みたくない相手故に、知らんぷりでの退散を画策した朋子を誰が責められようか。
 
 物静かな朋子と、かつて霧にダミアンと言われたほど悪戯小僧の名を欲しいままにした浩樹、ふたりは性格の折り合いが巧く付かないのかもしれない。――否。かもしれない、ではなく、実際問題自分と浩樹はソリが合わないのだ。
 朋子に言わせれば、互いは火と油の間柄に在る。確かに、顔を合わずたびに、ああだこうだと文句の言い合いをしている彼女達を親しい師弟と表現するには些か無理があるとは思う。
 ただし、その決して交わるはずのない相反した性質を持った少女に、積極的に声を掛けてくれる人物のひとりが浩樹だというのも彼女にとって皮肉な話だった。そういった意味では、犬猿、火と油とはあくまで朋子が下した観点でしかなく、浩樹の感覚は朋子とは異なる位置に在るわけだ。でなければ面倒臭がりな彼が毎日ちょっかいなど出してきやしまい。
 
 「……で、上倉先生は私になにか用事でもありやがるのでしょうか?」
 
 ホールドされた位置は、頭から脇へ。クレーンに掴まれ、穴まで誘導されるUFOキャッチャーの景品の如く、有無を言わさずして隣席まで連れてこられた朋子はぷいっと横を向きながら尋ねた。ハンドメイドな檻からの脱走を諦めたのか、不満そうな横顔には諦観の念も閉じ込められている。目が死んでいないだけまだマシか。
 
 「そうそう、そうやって素直に隣に座っていればいいのよ、キミは」
 「もし願い事が一つ叶うのであれば、あんたとは金輪際顔を合わせたくないものね。さっさと不祥事でも起こして他の学校に飛ばされればいいのに。あんたは北海道の山奥で動物相手に教鞭を揮っている方がお似合いよ」
 「あ、そうそう、ちなみに来年のお前の担任は俺だからな。さっき第一回目のドラフト会議があって、霧と俺とがお前を指名し、公平なくじ引きの末に俺が当たり札を引き当てた」
 「は!? え!? ちょ! す、スリザリンは嫌だ……ぜぜぜ絶対に嫌だ!!!」
 「なんだよ、そんなにも嫌そうな顔しやがってからに。なんなら霧のクラスにFA宣言してもいいんやぜ? 俺はどっちでも構わないぞ。俺か霧か、お前が好きな方を選べ」
 「アズカバンもお断りよ……! あんたね、それは死刑囚に自分の死に方を選ばせるようなもんでしょうよ」
 「いくらなんでもそこまで酷くはないと思うんだが」

 ともあれ。
 
 物事が自分の考えている方向へ進んでいくのを確認すると、浩樹は大変満足そうに鼻を鳴らし、そして自分の定食へと箸を伸ばす。自分勝手というか唯我独尊というか、まあなんとでも。たとえ億の字を用いて彼の性分に適切な言葉を用意したところで、あっちの方向を向きながらもせっせと髪の毛を直している朋子の機嫌が晴れるわけでもない。おまけに、さっきまではあんなにも寒々としていた外の景色に、一転して見事なまでに晴れ間が差しているのは少女が神様からも嫌われている証左なのか。
 ああ、そうですかそうですか、と親指と人差し指とで掴んだ前髪を微調整。今日は、いや今日もうっかりと手鏡を忘れてしまったので乱れに乱れた髪の毛を元の状態とまでは修正できないけれど、それでも何処の山女みたいにクシャクシャにしているよりかは云倍も気分が落ち着く。というか頭を掴むのを百歩譲って認めるとしても、その状態で左右に振るのは辞めて欲しい。そもそも年頃の女の子の頭を掴むとは一体なにを考えているのか……。
 
 浩樹に対する不満を挙げていけばキリがない。パッと見相当不満を溜め込んでいる顔でちらっと隣の様子を窺えば、傍若無人の隣人は朋子がそこに腰掛けることは当たり前なのだとでも言うように、視線は手元にあるランチへ一点集中している。料理の減り具合を見るからに、浩樹も食事を摂り始めて間もないようだ。
 
 図太い神経の持ち主には似付かわしくない繊細な指が木箸を手繰り、程良く焼けたコロッケを一口分放うりこむなり、朋子の鼻先はたちまち甘い匂いに擽られる。年頃の女の子が空腹で死にそうなプードルみたいに鼻をクンクンとさせるのは酷くみっともなく思えるも、香りは人の頭をハンマーで殴り付ける、とはよく言ったものである。鼻の辺りをゆらゆらと漂う香ばしいそれに引きずられたのか、朋子のお腹は可愛らしく呻くのであった。
 
 朋子は突然の腹の音を誤魔化すように二三度わざとらしく咳をしつつ、ふいと思い出した。
 そういえば自分はBランチと日替わり定食のどちらにするかで悩んだ末、温かいうどんを選んだんだっけか。人は岐路に立たされたとき、第三の選択肢を選ぶ傾向があるのは何故だろうか。
 
 「……あら、あんたのお昼、随分と美味しそうね」
 
 何の気も無しに吐かれた言葉はこれだった。
 こうも目の前で好物を食べられていると、数十分前の恨めしさが沸々と甦ってくる。
 嗚呼、愛しのBランチ。麗しのBランチ。ただただBランチ。浩樹がパクパクと口にしているBランチは、他のメニューと比べても子供向けな料理が盛りつけられる傾向が強く、洋食を好物とする朋子だけでなく学園全体の支持を一手に集め、新聞部が設ける定期的なアンケートでも大体トップ3には食い込んでくる人気者となっている。今日も高級感漂う白いプレート皿の上に、海老フライ、スパゲッティ、デミソースに染められた肉厚のハンバーグ、そしてオムライスと色取り取りに豪華絢爛だ。
 
 「そうか? あんまし代り映えのないプレート料理だと思うけどな。ぶっちゃけ俺ならもっと美味く作れるね。お前も意地張ってないで一度ウチに食べにくると良いよ――――って、あれまー、藤浪。髪の毛に茶色っぽいゴミが沢山付いてんぞ? なんだそれ?」
 「ふふふ、なに言ってんのよ、このファンタスティック馬鹿」
 
 海老フライを掴んだまま、朋子へ箸を突き出す浩樹。
 これはあんたが付けたんでしょうが……、と朋子は顰めっ面で文句を垂れようとするも、すぐに吐き出しかけた言葉を胃の中へと戻す。諄いようだが、たとえ満場一致の正論を用いて糺そうとしても、自分勝手に話を進める浩樹の良心を揺り動かすことなど不可能に近い。むしろそれの何処が悪いのさ! と逆に居直られそうな予感がビンビンするから余計ストレスが溜まる。俄には信じられないだろう。しかし上倉浩樹はそういう気風なのだ。乙女の命に揚げ物の衣を擦りつけたとしても、悪びれる様子などおくびにも見せない。そのうち胃に無理矢理押し戻した言葉達が積もりに積もり、食あたりを起こしてしまいそうだ。
 
 「知らないの? 最近じゃフライの衣を髪の毛にくっつけるファッションが流行っているのよ? やあねえ枯れてる男って。紛いなりにも教師なんだから、女子高生の流行くらい知っておかないと色々と苦労するわよ」
 「ほんじゃ右左のバランスを考えてもう一個いっとくか? ほれほれ、女子高生のマストアイテムの衣さんだぞう。さっきのはコロッケだったけど、今度は海老フライのだぞう」
 「止しなさい。さもないと今すぐこの指を目ん玉に突っ込んでぐりぐり掻き混ぜて差し上げるわよ」
 「ええ! 藤浪が女子高生のマストアイテムだって言ったんじゃないか!」
 
 圧力鍋に放り込んだような超低音ボイスでそう吐き捨て、仲睦まじいカップルがデコピンするかのよう、うふふと微笑みながら浩樹の顔へと人指し指を伸ばす朋子。けれど行き先は額ではなくて瞳。暗黒社会(※ルビ:引き籠もり)を愛する私にとって貴様の目の玉を捻り潰すことなど造作ないわ! とでも咆えるかの如く、デンジャラスな行為に及ぼうとする朋子には迷いなんて一切感じられない。
 そして、もしこの場に霧が居ればこう言うだろう。アンタ達、相変わらず仲が良いわね、と。
 
 「ほらよ」
 
 だとしても朋子のささやかな報復が年輩者相手に成功するはずもなく。
 彼女の目論見など全部するっとまるっとお見通しな浩樹は、目に近付いてきた指を軽くいなすと、そのまま箸で掴んでいた唐揚げを朋子の口へ突っ込む。それに伴って訪れるはしばしの沈黙。一寸、なにを口に放り込まれたのか訝しがった朋子も、ゆっくりと噛み砕いていく内にそれが好物の唐揚げだと気が付き、たとえば小鳥が餌を啄むように無言で咀嚼していく。
 効果音はハムハムハムハム。でもって、幅5cmにも満たない唐揚げをさえ満足に入れられないおちょぼ口なりにもぐもぐとリズミカルに顎を動かした末、ようやく吐き出した言葉が、「ねえねえ、もう一個ちょうだい。次はデミのおまけのステルスポテトが食べたい」ときたものだ。シャツの裾をくいくいと引っ張っる朋子に、「俺、お前の金のかからないところ結構好きだぞ」泣いたカラスがもう笑ったな、と、浩樹はもう一度朋子の口まで物を運ぶとともに苦笑した。
 
 さても、公衆面前にも関わらず、世間様で言う『あーん』とやらを実践しているふたり。だけど、浩樹の感覚的にはカップルがよくやる件の行為ではなく、公園やらデパートの屋上やらにわんさか居る鳩への餌付けに近い。そもそも、あーんとは本来女の子が箸を差し出すものである。
 そんな世間のセオリーに反し、「次はあれが食べたい、あ、今度はそれが――」、デミに、パスタに、オムライス(の卵の部分だけ)、とテンポ良く食卓からおかずが消えていき、けれど、もきゅもきゅと小動物みたいに口を動かす朋子を眺めていたら、もはや自分が口にするおかずの数などどうでも良くなってくるのも自然なことなのかもしれない。
 それにいざとなったら朋子のランチを分けて貰えばいいさ、と浩樹は至って楽観的だ。彼女はぶっきらぼうを装っている割りに、妙なところで義理堅い性分をしているため、本気で頼めば二つ返事で分けてくれるはずなのだ。
 
 どれどれ藤浪さんちの朋子ちゃんはー、なにをー、頼んだのかー、ねー。
 浩樹は心の中でそう歌い、朋子の手前に置いてあるトレイに視線を投げた。
 すると其処には――――ああ、そうさ、うどんっぽい物体が乗っていたんだ。
 
 「おいおい随分と微妙な温度のうどんだな。これかけうどんだろ? まったく湯気が立っていないばかりか、つゆさえ残ってねえじゃん。お前な、いくら猫舌だからってこれはねえぞ」
 
 一言、ビックリした。湯気が立っていないとか、麺がつゆをすべて吸ってしまっていることもさることながら、ツンツンと箸で軽く触れた程度でバラバラになるのは如何しともがたい。
 自分との瑣末なやりとりもうどんがこうなってしまった一因に違いないが、掴めないわ、掬えないわで、これだと口まで持っていく前にうどんはYシャツにダイブしてしまうじゃないか。間違いない。これは食べ物なんかじゃない。
 
 「あら、ほんと。まさに私達の関係のようね」
 「熱くもなければ冷めてもいない、ってコトか?」
 「…………御願い。言った私も意味がわからないから聞き返さないで頂戴」
 
 すかさず、ごめんなさい、とでも言いたげに顔の前で両手を合わせる朋子。顔は怒りとは違う意味で、朱に染まってしまった。それはまるで天に向かって許しを乞う敬虔な神の徒のようで、ただでさジョークの類を不得手としている彼女が、勢いに任せて適当にボケてしまってはそりゃ大事故を起こすってもんだ。
 彼女の比喩が一体なにを示唆していたのか浩樹には皆目見当付かなかったものの、ひとまずは不可解な朋子の言動よりも、眼前のうどんらしき物の処理に励んだ方が賢明に思えた。だって、そうしなければ自分の昼食が台無しになりそうなんだもの。おかずをお裾分けするぶんには全然構わなくとも、だからといって勢いそのままにすべて平らげられてしまっては困る。
 
 「あ、次はハンバーグちょうだひたたたたたたたたたた!」
 
 逆に、師の心弟子知らずとでも言えばいいのか。ぱっさぱさのうどんを他人事気分全開に放棄し、浩樹の昼食を制覇する気満々といった様子でデミハンへと箸を伸ばした朋子の頬が一気に横に伸びた。伸びるわ伸びるわ、先程とは異なり、朋子の頬を伸ばす浩樹のライトハンドからはまるで容赦が窺えない。
 
 「他人面してないでお前はうどんと真剣に向き合え。ついでに自分の箸を使え。行儀が悪いだろうが」
 「ひわいはらははひへほう……」
 
 訳は、痛いから引っ張らないでよう。お前は溺れる子供かと言わんばかりに両手を慌ただしくバタバタとさせ、頬の痛みで涙目となった朋子が必死にそう訴えかける。
 ちなみに朋子にしてみれば、胃に押し込めたくなかったうどんを他人に押し付ける絶好の好機である。なにせ自分が浩樹の定食を平らげてさえしまえば、多少強引なりとも事実上のトレードが完成する。盗人猛々しいが、賢者の精神を心掛ける者、この千載一遇のチャンスを見逃すわけにはいかない。
 
 「藤浪、お前は親御さんに食べ物を粗末にしちゃいけないって教わらなかったのか?」
 
 幾ばくかの経過の後、頬から手を離した浩樹は諭すように言う。目は細い。
 
 「お、教えられたわよ。しっかりばっちりと。米を一粒でも残すと目が潰れるとかも。……それはともかく、金輪際頬を引っ張ったり頭を掴んだりしないでくれない? あんたこそ習ったでしょ、女の子に乱暴しちゃ駄目って。痛そうに見えないのかもしれないけど、地味に痛いのよ」
 「んー、そいつは無理な相談だ。藤浪を見ているとどうにもこうにもからかいたくなるんだよ。お前さんは案外気の毒な素質を秘めているのかもな」
 「んなもんちっとも嬉しくないわよ。生徒に加虐心を顕わにするとか、お前もうマジで死んでしまえ」
 「おいおい随分と物騒な科白を吐くんだなシニョリータ。ここはほら、上倉先生に構って貰えて私は三国一の幸せ者ですと言う場面じゃないかね。毎度毎度言うがな、お前はすこぶるノリが悪い。ささやかな気配りが出来ないからクラスでも浮くんだぞ」
 「ノリの悪さは関係ないでしょ、ノリは」
 「いいや、関係なくないね。中村ノリを見てみろ。中日から楽天に移籍した途端、生まれ持ったKYっぷりを遺憾なく発揮し、今オフに首を切られてしまったではないか。ぼやぼやしてるとお前も1-Eのクラスメート達から戦力外通告を言い渡されるぞ」
 「いや誰よ、中村ノリって」
 
 空気という意味のノリから野球のノリへ。政経の問題で言えば、まるでエリツィンからプーチンへ、みたいな流れである。
 どうして突如元祖中村ブランドの話になったのかはさておき、朋子に言わせてみれば、気配りだけで周囲と協和できるのならば自分とて日々苦心しない。――友達を作れ。浩樹は顔を合わすたびに簡単にそう諭してくるけど、彼女にとってはこれほど難しい問題もないわけで。詮無い言い方をすれば、身体に爆弾を抱えているからこその後ろめたさや、過剰に人を避けて行動していたこれまでの生活による精神面での後遺症、ありとあらゆる不安要素が混ざり合って自分は知らず知らずの内に人並みの世界から遠ざかってしまうのだ。
 ややこしい話だ。そう、ややこしくて、面倒臭くて、どうしようもないくらい鬱陶しい。
 昨今、世間では価値観の多様化が進んでいるとメディアは伝えているが、素晴らしい十人十色の世界が築かれるどころか行く行くは二極化するのが目に見えている。卑屈な声を振り切るほどの才能に恵まれた者達が生きる世界と、そういう才能を与えられなかった、保守的な大多数が支配する世界との二種類だ。
 朋子が身を置かざるを得ない、平々凡々が生きるに相応しい世界、それは周囲を絶え間なくローラーで一色に塗り潰そうとしている者達との共生を余儀なくされるものだ。だからその保守派に属する平均的日本人は、多様化の方の人間が何をしようとも素知らぬ顔でいられるけれど、自分と同じ保守派の人間が自分と違う行動をとった途端に憎しみを抱いてしまう。ひとりだけ違うことをするな。ひとりだけ違う景色を見ようとするなって。
 日本人は人間関係を煩わしがる癖に孤独には物凄く弱い。それを解決する選択肢がみんなで同じ行動を取るという手段だ。あの子と私は同じ、つまり私は孤独じゃない。それで、自分だけが違うとか、周りにいる誰かが違うことをしているとか敏感になってしまう。
 ただでさえ精神が育っていない多感なお年頃。結局は“普通”でなければ同じ仲間として見なして貰えないし、“普通”でない者は自然と輪っかから外されてしまい、本当の意味での孤独を強いられてしまうわけだ。
 
 「……どのみち私が浮いてることはあんたには関係ないでしょう。前々から一度言おうと思っていたけど、いい加減放って置いて欲しいのよ。あんたがこの話をするたび私のか弱い心臓はズキズキとダメージを与えられるの。つーかさ、事ある毎に孤立しがちな私のデリケートな部分に遠慮無く触れてくるのは一教師としてどうなのよ? 道徳観って奴に欠けるんじゃないの?」
 
 常々ひとりが良いと公言し、単独行動の毎日にベストフォームを心掛けている口だけ番長の朋子でも、こうも直球勝負をされると返事に窮してしまう。これはアレか。いっそ優れない顔で「私実は寂しいんです……」とでも弱音を吐けば、或いは肩を貸して貰おうとさえすれば、こいつは満足してくれるのだろうか。
 でもそれはひどく難しい。だって彼女は痛いほど知っている。たとえ在るか無きかの勇気を振り絞り、一歩ずつ確かに前へ進んでいったとしても、左、右、左と拙くも交互に繰り出される両足に込めた希望や夢は、やがておもちゃの兵隊が倒れていくような虚しさだけを残し、パタリとパタリと倒れていってしまう。様々な艱難辛苦を耐え忍んだ末に手に入れた物だろうと、所詮彗星の速さで自分から遠ざかっていくのだ。素足のまま砂浜に落ちた小さく光る破片を必死に探しながらも、自分が自分でピクセル化してしまった未来に恐れていてはなにも出来ない。

 それでももう一度歩き始めることを許して貰えるというのなら、
 
 「そう言いなさんなって。日がな一日構ってはやれないけど、こうやって飯の時間くらいは一緒にいてやれるんだ。お前さんのことだ、放っておけばどうぜひとり寂しく飯食おうとするんだろ。飯は独りで食っても美味くねぇぞ」
 「勘違いすんなっつーの。別にあんたと食っても美味しかないわよ。ひとりで食べてもふたりで食べてもうどんにコシが戻るわけでもない。ほら見なさい、メリットなんてないじゃない」
 「それはどうかな? この多忙に怱忙されて息つく暇もない上倉先生が、藤浪のお嬢さんのためを思い、汁を完全にスポイルし、ぱっさぱさとなってしまった難儀なうどんを引き取ってやろうじゃないか。だからお前さんも、嬉しそうに、上倉先生ありがとう! と俺賛美をしてくれてOKだぞ」
 「ハッ、そんな馬鹿丸出しの科白を吐くくらいなら屋上で棒高飛びした方がマシね。飛ぶのは棒じゃなくてフェンスだけど。いつもは金網の前で躊躇しちゃうけど、なんだか今日は晴れやかな気分で飛べそうな気がするわ。1,2,3,ハイ! ってな感じでね」
 
 どさくさに紛れて物騒な科白を吐いてくれる。それくらい俺と関わりたくないのかお前は、と浩樹も大きく溜息を零した。
 朋子が自分を嫌悪していることは、自分はもちろん、学園の誰もが知っている話だ。前述通り、性格の噛み合わせが悪い事情も朋子が浩樹を疎ましく思う一因だが、朋子にとって彼の最たる苦手な部分は、自分の裡に潜む柔らかい部分に遠慮無く触れてこようとすることだ。いつもそう。いつだってそう。浩樹は殻に閉じこもりたい朋子の意志なんて微塵も顧みず、頑丈に鍵を掛けてあるはずの扉を騒々しくノックしてくる。それが朋子はたまらなく煩わしいのだ。
 
 「ともかくうどんは俺が引き取ってやるよ」
 「いいわよ。確かに一度は悪魔に囁かれ、そうして貰おうと考えたけど、やっぱり自分で食べるから。だって悪いもの」
 「気にすんな。むしろおかずが少ないとアレなんで譲って欲しいんだよ」
 
 右手をズイッと差し出す浩樹に、むう、と言い淀む朋子。そこを突かれてしまうと、好き勝手おかずを貰った手前反論できなくなってしまう。朋子は恐る恐る彼の手元を見る。すると自分が好き勝手に食べ散らかしたがために、残っているのは白米と少量のパスタだけとなっていた。
 
 「……なんというかごめんなさいね」
 「だから気にすんなよ。うどんさえ貰えればそれでいいから。で、お前も食うもんが無くなって困るだろうからその代わりお前にはコレをやる」
 
 定食がほとんど消えてしまったことについては本当に気にしていないらしい。頬杖をついていた浩樹はけらけら笑って朋子の頭をふわりと撫でる。続いて「はい、次の商品はこちらです」とジャ○ネットが新しい商品を紹介するみたく、懐から四角い物体をいきなり取り出すなり、浩樹は、うどんを引き取ったことにより生まれたスペースへそれを差し出した。
 
 「なにそれ?」
 
 自分の前にふいと現れた、ピンク色の風呂敷で丁寧に包装された箱。
 答えは九割方わかっていても、一応尋ねてみる。
 
 「見ての通り弁当だよ。それも我が愚妹が早起きして作った愛情たっぷりの手作り弁当だ。美味いぞー。血の慟哭をするくらい美味いんだぞー」
 
 すると、浩樹は指揮者のように指を左右に振り、それから身振り手振りをオーバー過ぎるくらいに駆使してその弁当についての解説を始める。
 まず最初に得た情報は、このお弁当を拵えた人物が彼の妹の鳳仙エリスであること。クラスが違うので彼女については大まかな噂話に程度にしか知らない朋子だが、間もなく開かれた弁当箱の中を見るや瞬時に彼女がなかなかの腕前をしていると把握できた。こいつは最高にグッドな弁当だぜ、と。
 
 「へえ、さっすが」
 「だろ?」
 
 我知らず、ごくりと喉が鳴る。卵焼きにハンバーグ、タコさんウインナー、と所狭しと敷き詰められたおかずはどれも朋子の好物であり、しかも見事に色形のバランスが整っている。匂いも上々。えらいお宝でも発見したように期待に満ち溢れている朋子の目がその弁当の凄さを物語っている。浩樹が得意げに首を持ち上げたのにもバシッと頷ける。
 食べることが好きな人間は得てして作る方も得意と聞くが――ふむ、どうやら彼女も例に漏れずそうらしい。流石は才色兼備の鳳仙エリスだ。芸術方面だけでなく、家事まで完璧にこなすとは其処に痺れる憧れる。
 
 「どうだ、藤浪。噂のベントゥー娘が絶対の自信を持ってお送りする一品。食べてみたいと思うだろう?」
 「そりゃ……まあ、これだけの一品を見せ付けられちゃ否定はできないわね」
 
 その速さは高速にして神速、コクコクといつになく素直に頷く朋子。いくら天の邪気な彼女でも極上の弁当を目にしては、嘘や意地っ張りな言葉は吐けなかったようだ。
 
 なお、浩樹が口にした“ベントゥー娘”とは、先月より教員達の間に定着したエリスの愛称である。
 あれは珍しくぽかぽか陽気だった日だったか。授業中眠りこけていたことがバレたエリスは、怠慢した罰として英語講師に『弁当を英語で言ってみろ』と意地悪をされた。問題を出されたと言っても小学生でもわかる簡単な問いなので罰にはなってしないような気がするものの、――しかし、英語が苦手なのか、それとも寝惚けていて頭が覚醒していないのか、どちらにせよエリスはなかなか答えようとしない。講師はたぶん前者だと思ったのだろう。彼女の様子を見かねた英語講師は『お前の大好きなものだぞ。わからないのか?』と煽るように告げる。その数秒後、ムキになったエリスの口から『ベントゥー』なるわけのわからない言葉が無駄にネィティブ化して発射されたのだった。
 
 以来、天使の化身と謳われていた金髪の少女は、やけに庶民じみたあだ名を授かることとなったわけだ。あらゆる方面に恵まれに恵まれた、鳳仙エリスなる存在を疎んだ陰気な先輩に絡まれ、「お前何様だよ」と聞かれた際も、これ以上ないくらいのドヤ顔で『山の手の御嬢様』と答えたりと頓珍漢なエピソードには事欠かない。エリスもまた浩樹に負けず劣らずの特異な思考回路を持ち合わせているのであった。
 
 「な、美味そうだろ?」
 「うんうん、とても美味しそう。……でも貰っちゃっていいの? 彼女、あんたのために作ったんじゃないの? 一応説明しておくと、愛情がたっぷり籠もったお弁当を他人に食べさせるとほぼ100パー修羅場るわよ」
 「どうぞどうぞ。お好きなように召し上がってくださいませ。ほら、あいつも友達ゼロだから、藤浪に感想貰えたら滅茶苦茶嬉しいと思うぞ。いっそ、このまま仲良くなっちゃえばいいじゃないの」
 「いやまあ、私の交友関係の拡大は今は置いておくとして、それじゃあ遠慮無く貰っちゃおうかしら。最後に聞くけど、ホントにホントに良いのね? 鳳仙さんに怒られても私は責任を持てないからね?」
 「おう。男に二言は無い」
 
 心の寛大さを見せ付けるよう、フフン、と偉ぶるように鼻を鳴らす浩樹。
 そして、いつも疎ましがっていてごめん、と朋子は浩樹の優しさに感謝し、軽く首を垂れた。
 この人は私に伸びきったうどんを食べさせないための配慮として、この美味しそうな御弁当を交換条件として提示したに違いない。意地っ張りな私の性格を鑑みての見事な作戦じゃないのよ。朋子の中での浩樹の評価が『ケッ最低な奴でヤンス』から『まあまあ』に急上昇する。
 
 
 
 ――しかし、それがやはり一時の気の迷いだったと思い知ったのは、タコさんウインナーを口に入れて間もなくのことで、その後浩樹の確信犯的なにやけ面に見事な膝蹴りがヒットしたとは言うまでもない。
 
 


 
 ■後記
 
 もう一個へ続く
 
 
 


めーるふぉーむ
 

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