/ One small day


 
 その部屋の框を踏んだ瞬間、カーテンを揺らすように入ってきた暖かい風に詞の髪がなだらかに舞った。耳に掛かった髪の毛を払いつつ、すっと軽く息を吸えば、ほのかに藤袴の甘い匂いがほんのりと鼻孔を擽る。時の流れとは実に早いモノで。部屋の入り口のすぐ横、黒の木目調の本棚に引っ掛かっている壁掛けカレンダーにふいと視線を投げ、「もうそろそろ一年になるのねえ」とひとりごちる。思えばあ〜、としみじみ振り仰ぐほど遠くに来たつもりはないけれど、たまたま同じクラスに居た、稀代のお人好しを所詮one of themでしかないと小馬鹿にしていた去年の冬から、次第にthe one and onlyと真摯に受け止めていくようになったこのスピード感の心地良さをどう言い表せばいいのやら。
 
 彼女的には劇的と呼べるくらいの生活の変化に伴い、淡い青を基調としたこの部屋に足を踏み入れることは珍しくなくなったけれど、かといって近所のおばちゃん諸々に「通い妻」と井戸端られてしまうほど頻繁に足を運んでいるわけでもない――とは、プライドがスカイツリー張りに高い彼女なりの強がりとかじゃなく。普段机の上に置かれている目覚まし時計がベッドの枕元に移動していたり、新しく部屋の隅っこに空気清浄機が増えている程度には気が付けても、この杜撰な部屋の持ち主が後生大事に抱えているお宝本の隠し場所が○○から××へとFA宣言したまでは到底知り得ない。最も、彼女に言わせれば、そんなもの知りたくもないわけだが。
 
 「……あーあ、まあた散らかってるよ。先週片付けたばっかりなのになあ」
 
 それを見た感想はやはり溜息混じりに。潔癖なる単語を現実に書き起こしたふうな自分のそれとは異なり、部屋のあちこちに物が飛び交っている有様を見て眉が幾らか下がったことを彼女は否定できない。けれど、初めて此処を訪れた時からしばらくの間に感じていた苛立ちは今はすっかり失われ、ゆっくりと辺りを睥睨しつつ「仕方ないなあこの人は」とかなんとか呟くとともに、それらを元の位置へと片付けていく甲斐甲斐しさに我ながら驚きを覚える詞であった。え、マジ、これがあの私なのって。いやはや、まさか自分の利益に鐚一文たりとも繋がらない行動を好んでとるようになるとは、人生とはつくづく何が起こるかわからないものである。
 
 完璧なキャリアウーマンになることしか頭に描けていなかった当時こそ考えてもみなかったが、案外自分は良いお嫁さんになれるのかも……と浅く巡らせたところで「なあに、馬鹿なこと考えてるのよあたしは」立てた右手を横に二三度振って、恋に恋する中学生並にこっぱずかしい方向へ走り出した己の想像力逞しい思考回路を律する。夕暮れ時でもハッキリとわかるほど顔が赤らんでいるのは御愛敬。
 
 「でもって、貴方はいったいこんな時間にベッドでなにをしているのかしらね」
 
 したらば、隅々まで綺麗にしたはずの部屋があっという間に汚くなるのであれば、このお馬鹿ののんびりさ、鈍感さが一向に改善されないのも仕方がないのか。
 いつもみたいに腕を組み、明らかに自分と違うレールの上を駆けるパジャマ姿の少年を一頻り見下ろした後、よほど夢の国の生活にのめり込んでいるいのか、たいそう幸せそうな面差しを浮かべている顔へと手を伸ばす。……が、しかし、ぱちん、と割と強く弾いた詞の人差し指が純一の額を捉えたとしても、当の本人は蚊に刺された程度にも気にすることはなく、依然と豪快なイビキを掻き続けるばかり。何故か枕を抱き締めて北の方向へ向かって頭を向けているが、恐らくはカーテンの隙間から漏れる光から逃げ回っているうちにこの体制に落ち着いたのだろう。その過程で蹴飛ばされたのか、詞が学校にいる間に幾度となくコールした携帯電話はフローリングに転がっており、丁度見える角度にあったモニターが不在着信が19件もあった旨を映し出している。うち18件は詞の携帯から。まったく、人の気も知らないでよくまあこうも穏やかにその四肢を揺らしていられるものだ。
 
 「これはお仕置きが必要ね」落ちていた携帯電話を手に取り、そしてパタンと折り畳む。御主人様を困らせたのだから当然罰は受けなければならないとは、古き良き時代から受け継がれてきたルール。そして数多の人はそれを躾と言う。
 たとえば彼の顔の横に投げられている英和辞典を、自分の身長分の高さから彼の顔目掛けて落としてみたらどうなるか。ビックリするだろうか。そりゃあそうだ。これを食らってゼロコンマ単位で驚き桃の木しない人がいればそれはたぶん幽霊だ。いくら例の幼馴染みの女の子に匹敵するほど鈍いこの男でも流石に飛び起きないはずがない。重さにして凡そ500g。高さにして凡そ1m60cm。ともなれば、どんな豪傑をも叩き起こせる極上の目覚まし時計のご誕生だ。
 
 ふふふ! あはははは! と悪魔の如き微笑みを静かに浮かべ、分厚くて重たい辞書を純一の頭上まで持っていき、いよいよその手を離すかってところで、しかしハッとまた別の感覚に頭をシェイクされて思いとどまる。どうやら知らず知らずのうちにサドスティックな一面が開眼していたらしい。
 ちょっと待って、少し素数を数えて。冷静に考えてみれば、こんな危なっかしい物をこんな高さから落とせば最悪死に繋がる可能性だってある。それはちょっと不味い。だって、せっかく彼の妹や親御さんと親しくなれたのに、こんな瑣末な出来事のせいで気まずくはなりたくない。ましてや、つい先程彼の母親から「息子をよろしくね」と頼まれたばかり。
 
 せめてもの慈悲で漫画本くらいにしてやるか。
 お互いの関係に免じてお仕置きのグレードダウンをしてやると、神の遣い気分で胸に手を当てて一拍。冬に近付くにつれてより一層寒さが増してきたというのに、威風堂々とお腹を出して眠りこけている最愛にして最高の愚か者の寝顔をぼんやりと眺めているうちに、詞の身体からふっと憤りが抜け落ちていく。もとよりそんなものささやかでしかなかったのかもしれない。
 耳をつく規則正しい呼吸が、詞の耳を通して彼女を落ち着かせる。
 だから彼女は優しい雰囲気を撒き散らしながら――「ううん、森島先輩〜」、やっぱり叩き付けるように本を投げ付けたのであった。それも最後の夏に懸ける高校球児ばりの全力投球で。
 
 ※ ※ ※
 
 「い、いってええ!? なんだなんだ敵襲かこれは!! 誰だ、人が気持ち良く寝てるのにそれを邪魔した奴は! また美也だな、こんなことするのは!! あ、え、う、れ、あ、絢辻さん?」
 
 あまりにも唐突な爆撃開始から少しのラグを経て、線になっていた瞳がクワッと勢いよく開かれたと思えば、さっそくパニック口調から疑問符が発射される。 目の前で、本来そこに居るはずのない人物がややプンスカと佇んでいればそりゃ誰だって驚くだろうけれど。
 
 「あら、やっとお目覚め? お昼どころか夕刻まで眠りこけているとは、ずいぶんと良い御身分になったものね橘君」
 「…………」
 「なによ、黙っていないでうんとかすんとか言いなさいよね」
 「あー、まー、たぶん僕はまだ起きていないんだ。だって僕の部屋に絢辻さんがいるなんてそれこそ夢物語じゃないか。ああ、そうだ。そうに決まっている」
 「はあ?」
 「確か僕は、とある国の王様からの依頼を受け、民衆を苦しめる魔女を退治する旅に出たわけだけど……なるほど、つまり絢辻さんがその諸悪の根元なわけだな。夢は現実を反映するとか言うからね。これは日頃の恨みを晴らせよという神様のメッセージなのか」
 「…………開いた口がふさがらないとはまさにこのことね」
 
 だらんと、というかぽかーんとした口。見るからに覚醒しきっていないるニワトリ頭。ピントがいまいち合っていない目は、詞、窓、ドアの方を入ったり来たりして、そしてまた詞へと戻ってくる。部屋全体を通して伝わってくる違和感は彼独特の鈍感力で華麗にスルーしたようで、涎がべたっとくっついてだらしないそれが、いけしゃあしゃあと失礼千万を働きなすっては詞の頭をズキズキと惜しみなく刺激するのであった。
 ちょっと落ち着いて考えて欲しい。日頃の恨みとはいったい普段の私がお前に何をしたというのだ。だいたい日頃の恨みを晴らしたいのはお前じゃなく、お前の突拍子もない一挙手一投足に辟易させられている私の方だろうがこのバカヤロウめ。
 寝惚けているのだから悪意はないと知りつつも、些かに許せない部分もあるのだろう。唇と双肩を小刻みに震わせ、ついでにこめかみもヒクヒクとさせ、ビスクドールのような精緻な顔も徐々に般若チックへと変化していこうとしている。ぶつぶつと動かした口はまるで黒魔術でも唱えているかのよう。
 そしてこれがある意味では最も目覚ましとしての役割に適切だったのかも知れない。
 そのR18指定間違いなしの恐ろしい表情はたちまち純一のズレた頭に覚醒を促したらしく、詞の怒れる拳が振り下ろされるより少しばかり早く「うわあ! 本物の絢辻さんじゃん!!」とテンプレよろしくに飛び起きたのだった。でもって、それがまた慌ただしいものだから、掛け布団を巻き込むように起き上がった純一は間もなく右足を取られて豪快に転倒し、詞も詞で、そんな純一の情けない姿を前に「はあ……」と肩を竦めて天を仰ぐしかなかった。
 
 「うう、いたたたた」
 「普段からそそっかしいからそうなるのよ。確実に地震や火事の時に自滅するタイプね。しかも、どうして自分のパジャマのズボンをひらひらさせてるのかしらね。仮にも女の子の前なのよ、辞めなさいよそういう形容しがたい行動」
 「いや、僕が寝ている間に絢辻さんに破廉恥なことをされたんじゃないかって確認を」
 「するわけないでしょ、このアトミック馬鹿!!!」
 
 引き続き痛みを訴える額に右手を添え、一喝。
 頭のネジが三本くらい吹っ飛んでんじゃねえのコイツ、と。
 
 「あ、あはは、冗談だよ、冗談、うん。そ、それで絢辻さんは僕のうちになにしにきたのさ? こう言うのもなんだけど、うちに来ても面白いものなんて一つたりとも無いよ。強いて言えば美也のリアクションがそこそこ愉快なんだけど、あいつ起きてるかな」
 「あっきれた。私は貴方が学校を欠席したから心配してお見舞いに来たの。と言っても、今の橘君の間抜けな姿を見ていると無駄足もいいところだったみたいだけどね。あーあ、来て損した。このくたびれだけを儲けた時間を利子付きで返して欲しいわね」
 「は? 僕が欠席? なにを馬鹿言ってるのさ御嬢さん。エイプリルフールまで後何ヶ月あると思っているのさ」
 「はい、携帯。落ちてたから拾っておいてあげたわ。ついでに画面が傷付いていないか御覧なさい」
 「えー、別にモニターは壊れてないみたいだけど…………え、嘘、え、17時13分? え、え、ええ!? ももももももう夕方じゃないか!!!」
 「普通、画面よりもまず辺りの薄暗さで気付くと思うんだけどね。目覚まし時計の喧しいアラームにも気付かない、私からの電話にも出ない……いったい何時まで夜更かししていたのよ。ゲームはせいぜい二時間程度にしなさいってあれほど言ったじゃない。私生活の乱れがそのまま学園生活に響くなんて、貴方はもしかして小学校を卒業していないのかしら」
 「うぬぬぬぬ、事実だけにぐうの音も出ない。で、でもゲームをしていたわけじゃないんだよ。僕は……ほら、あれだよ、あれ。あれが原因で夜更かししていたのさ」
 「夜更かししていたことは否定しないのね」
 
 子供を叱り付ける母親のように眦を下げた詞におののき、今にも布団に丸まってやり過ごしたいといった面持ちの純一がふるふると震える人差し指で示した先は、相も変わらず散らかっている勉強机の上。詞も促されるままに鋭利な双眸をより眇めて見やると、そこには見覚えのある一枚のプリントがペンケースの下に敷かれていた。 そして詞が物憂げにそのプリントを手に取ると、1から3まで設けられている記入欄がどれ一つ埋められておらず、
 
 「……はあん、進路が決まらない、ねえ。けど、これは先週のうちに出さなければいけないものよね。一週間も期限を過ぎた挙げ句に未だ一文字も書いていないとか、高橋先生が見たら発狂ものね」
 「うぐ……返す言葉も見当たらない。ぐうの音もでないよ、ほんと。ははは、僕も絢辻さんみたいに頭が良ければスパッと書き込めたのかな」
 
 別に頭の良さだけが将来を決めるわけじゃないけどね、とひっそりと零す詞。プリントに記されていた「第一希望」を爪で優しくなぞっている内に自分の表情が少し崩れていくのがわかった。実際問題、いくら素晴らしい成績を修め、より高いステータスを得られる環境に身を置いたとしても、それが自分の幸福に繋がるかどうかはまた別の話。
 自分が良い例だ。一秒先が次の瞬間にすでに過去となっているこの世界でIFを唱えることはひどく馬鹿らしいと思いつつも、もしあの手帳をたまたま彼が拾わなければ、そして自分がそれを勘違いしてボロを出していなければ、自分は一生自分が設けた角張った価値観に縛られたままの未来を歩いていたのかもしれないから。
 それはそれで幸せだったかもしれないけど、でも今はそれを幸せと思う未来とは違う道を選んでいる。いずれにせよ、彼女の価値観はあの失態を境に、現在進行形でちょびっとずつ色を変えていっている。時に笑い、時に泣き、時に顔を真っ赤にするほど怒り、時には、自分が何故怒っているかに気付けず「あはは」と間抜け面を浮かべる少年の顔へ右ストレートが炸裂したことも。
 執拗に被っていた猫を脱ぎ捨てることは彼女なりに相当な勇気を必要としていたわけだけど、自分を取り巻いていた様々なしがらみを排した後の景色は、まるでブーツに羽が生えたかのように軽くて、そして軽すぎるあまり、馬鹿らしくなってしまう瞬間にそれこそ星の数ほど巡り会っている。けれど今の楽観的な生活を送る引き金を引いたあのWポカを後悔することはなく、むしろ一生感謝し続けるのだろう。
 
 「僕の希望なんて最終的に一つしかないんだけどね。でもそこまで辿り着くには膨大な努力を要求されると言いますか。今更ながらに後悔するよ。なんでもっと早くから勉強しておかなかったんだって。せっせかせっせと漫画やお宝本なんて集めてる場合じゃなかったよ、僕の馬鹿馬鹿馬鹿。できることなら美也と僕の年齢を入れ替えたいくらいだよもう」
 「あー、まー、あのさ、私の勘違いじゃなければいいけど、橘君ってさ、もしかして私のために進路をどうすればいいかとか考えていたりしない?」
 
 手にしていた紙切れをしばらく見回した後、そう言いながら詞は勉強机に腰を下ろし、ふうっと長めの溜息を漏らす。胸元に沈んでいた、ペガサスを象った銀のチョーカーがそっと浮き上がって、カーテンの隙間から差し込んでくる茜色の光を淡く反射させた。
 音を発することさえ勿体なく思えるような、しばしの沈黙はすぐにポジティブな方向へ色を為し。ははは、との相変わらずの苦笑は肯定の証。純一は思う。誰よりも優秀な彼女を出し抜ける日は訪れるのだろうか。いいやそれは難しいだろうな。だって彼女はいとも簡単に自分の胸の裡を見抜くから。
 
 「あ、絢辻さんは時折エスパーになるよね」
 「貴方がわかりやす過ぎるのよ。こんな形式だけのアンケートにしたって具体的なことを考えず、ただ大学とだけ書いておけばいいのよ。自分の目標とか夢とかは進路相談の折りで伝えればいいの」
 「そりゃそうなんだけどさ、でもそうだとしても僕にも色々と譲れないところがあってさ」
 「ま、橘君がどうしても私のために進路を悩みたいというのなら別になにも言わないけどね」
 
 言って、詞は不敵に笑う。
 もとより彼女は指揮官になるべく存在で、そんな詞の自信に満ち溢れた顔付きは、モザイクがかった将来への不安によってガリガリと削り取られていた純一の内面をすぐに穏やかにしてくれる。ともすれば、純一のここしばらくの悩み事など全能なる少女にとっては1+1の足し算を解くよりも容易いのだろう。そして彼が自分のことを想って悩んでいることを喜んでいるのだ。はあん、ふうん、と傲然と鼻を鳴らして椅子から腰を持ち上げるや、詞の顔が寝癖で乱れに乱れている純一のうなじへと近付いていき、
 
 「だけどね、」
 
 一瞬のタメを作り、
 
 「進路希望調査の欄が埋まらないのであれば、いっそ私のお婿さんと書いておけばいいじゃない。だって必ずその未来は貴方の下へ降ってくるんだもの」
 
 ――まさに一閃だ。
 その身も蓋もない言葉を投げられて明らかに戸惑っている純一の姿を大変にお気に召したのか、詞は、たとえば好きな子を虐めるような男の子ライクな悪戯っぽい微笑み(または悪代官のそれか)を浮かべ、「ばっかねえ、貴方は」とかなんとか言いながらも、桜色に染まる唇で純一の耳朶をかぷりと一噛み。SMの――、じゃなくて英国の女王様然とした雰囲気はやはりいつまでも彼女の裡から惜しみなく流露され続ける。それは川の流れのように止め処なく緩やかと。
 猫を被ることを辞めて久しい彼女の大胆不敵な一撃は、丁度半身を持ち上げようとしていた純一の体躯を再度ベッドへとダイブさせること相成り、ついでに純一を抱き締めるように背後からくっついていた詞も「あ、わ、あ、わ!」とすってんころりと半回転。

 そうして、より深く沈んだベッドの上で、純一、そして詞と、どちらが先とか意識するわけでもなく、ふたりは互いが孕む体温を確かめ合うように強く抱きしめ合っていた。
 
 
 
 


 
 ■後記
 
 ふかふか
 
 
 


めーるふぉーむ
 

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