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V.絵馬のジレンマ
――数えてワンツースリー。
「訊いて驚くなよ、加藤。なんとあの無口ガールが僕と手を繋いだんだよ」
1.学園で最も空が近く感じられる場所――。
2.朝会での校長挨拶の如く延々と垂れ流される近江祥吾の取り留めのない話――。
3.一つしかない弁当箱を二人で突き合うと云う、わけのわからない構図――。
白いキャンバスの端から端までを碧の絵の具で塗り込めたような鮮やかな水面。
其処をゆらゆらと泳ぐ数匹の小鳥と、自分の向かい側に腰掛けている少年を交互に見つめながら、七瀬の親友その2こと加藤絵馬はぼんやりと思い巡らせていた。
普段は警戒心からか必要以上に自分との距離を空けたがる彼が、どういう心境の変化で私と昼食を共にする運びとなったのだろうか、と。
人気はあっても男っ気のない絵馬にとって、弟以外の異性と席を共にすること自体仮構できぬ絵空事だと云うのに、対座に腰を据えている人物が近江祥吾とくれば戸惑いは倍増。
祥吾と自分の関係ときたらアルファベットが一致した磁石みたいなもので、一歩近付いてみると途端に一歩下がられ、二歩詰め寄れば三歩は下がられる、そんな拒絶にも近い曖昧な距離感を一方的に築かされているのだ。
同じ属性を持った者以上、外部から強い力を与えられなければ交わることはない。
背後から声を掛けられてしまっただけで萎縮してしまう臆病者が、それこそなけなしの勇気を振り絞り祥吾を遊びに誘ってみても、その都度「パンの間に焼きそばを挟むバイトがあるから」とか「宗教上火曜日は遊びに行けないから」とか「僕の魂がバレンシアに戻れと言っているから」などと、ゼロコンマ単位で看破できる欺瞞を盾に煙を巻かれてしまっている。ついこの間も、町中で偶然彼と顔を合わせたので絵馬は駄目元でお茶へ誘ってみたのだが、やはり色好い返事は貰えなかった。
現在に至るまで成功率は0%。挑戦数が少なければまだ救いが在るのだが、中学生の頃より週一回間隔でアプローチしていたので合計数は優に100回は超えていると思われる。
撃墜王の名を欲しいままにしている絵馬に相応しくない散々な戦績である。
其の祥吾が自分と御飯を食べているのだ。それも疑心などおくびにも見せない燦然とした笑顔で語り掛けてくれている。夜更けに太陽が見えるような、あまりにも有り得ない流れを前にしては、絵馬が「もしかしたら自分は夢の住人となっているのかもしれない」と疑ってしまうのも已む無しだった。
夢と現実、自分が今どちら側にいるのか確かめる術は幾つか在る。絵馬には頬を引っ張る程度しか思い当たらないけれど、正直其れだけで充分だ。従って古典的な方法が示した答えを信じるのなら、祥吾と自分が肩を並べている“今”は紛う事なき現実なのだ。すでに絵馬のほっぺたは真っ赤に染め上がっていて、数分前に受けた怪訝な眼差しと、思い切り抓り挙げた頬の痛みとで彼女は二種類の面映ゆい感情にアクセクしている。ほっぺは痛いわ心も痛いわでもう踏んだり蹴ったり。抓るにしても目一杯の胆力で抓り挙げる必要は無かった。軽くで良い。太った猫のお腹を摘む程度で良かった。時たま自分がなにを考えているのかわからなくなる瞬間が在るけど、今がまさに其の時だった。
――だって信じられなかったんだもん。
片方の頬に色鮮やかな紅葉をプリントした絵馬が言い訳するようにごちた。
成功率が限りなくゼロに近いとは云え、自分が誘ったのならまだわからなくもない話であるものの、現実に屋上へ誘ってきたのは向こうだし、あまつさえ彼は私のお弁当を何食わぬ顔で食らっている。パクパクと。もぐもぐと。まるで自分と食事を摂ることが遥か昔から恒久化していたとでも云うかのよう、彼の動きには淀みなんて欠片も感じられない。箸を操る左手が軽いこと軽いこと。いつになく減りが早い御弁当箱は、持ち主がほとんど手を付けていないと云うのに、もう底の絵柄が見え始めていた。
そういえば朝食を抜いたと言ってたっけか。
昼休み開始と同時に、炊飯器の予約がどうこう言いながらけらけら笑う祥吾と出会して、ようやく親友の背中が哀愁を漂わせていた原因を知った絵馬は、今日日も近江兄妹はいつも通りだなと感心しつつも其れとこれとが何故にイコールで繋がるのかとんと解せなかった。朝を抜いたので加藤の御飯を食べることにした、と祥吾は疑問符まみれになっていた絵馬へ告げたけど、耳を突いた三十文字相当の中には絵馬を納得させ得る具体的な盛り込まれていなかった。
「うーん?」
順調に減っていくお昼御飯を見つめながら絵馬は首を傾げる。
相席の事由が明確にならないのはスッキリしないけど、ひとまず其れは心の隅にでも置いておくとして、今は弁当について慮ろう――とうとう攻略間近となった二人前の弁当についてを。
絵馬が弁当の中身を二人前拵える理由は通例弟と一緒に昼食をしているためだが、実情は二人前のほとんどを冬馬が平らげてしまっている。故に絵馬は其処まで物を詰め込まなくとも空腹は充分満たせる。むしろ弟が来られない分、遠慮せずに食べて貰いたい。
しかし、このままのペースで食べ続けられてしまうと話は全く異なる。
絵馬はおにぎり一つも口にできない結末を思い浮かべる。
この時間だと購買のパンはすべて売り切れているだろうし、頼みの学食は先週より三ヶ月に一度の長期清掃に入っているため開いていない。学食が休みの間、代役として紫陽花亭と云う喫茶店が入っているけど、お世辞にも誉められた味をしていないので利用者はごくごく僅かしかいない。かくいう絵馬もたった一度の利用で金輪際訪れたくないと思った。というか自分よりも料理の腕が酷い人を生まれて初めて見た。ハンバーグの味を一言で表すならガソリンだ。あんな酷烈な腕前で飲食店が開けてしまうのだから世の中わからないものである。紫陽花亭の見所は、料理の味やバリエーションではなく、店主がイースラーの物真似がやたら上手いことのみなのだ。日本ハムが好きでもなければ、そもそも野球そのものが好きではない絵馬にとっては至極どうでもいい店だった。
となると、もうじき鳴き始めるであろう腹の虫は気合いで押し殺すしかない。この後はLHRが控えているだけなので授業中に赤っ恥を掻くことはないだろう。が、仮に気合いでLHRを乗り切れたとしても、放課後に待ち構える部活動にはほぼ間違いなく支障をきたす。
其れは七瀬も同じ。他人に頼ることを快く思わないあの子が珍しく自分に頭を垂れてきたと思えば、吐き出された言葉が「お昼御飯を分けて欲しい」ときたものだ。常に半分しか開いていない眠そうな眸がより一層眠たげになっていたため、彼女の体調面に何かしらの問題が起きていることは確かだったものの、まさかにそんな御願いをされるとは予想だにしていなかった。
現状、七瀬は予期せぬトラブルに巻き込まれて屋上にやって来るのが遅れているのだが――はてさて、この0に等しい御弁当箱の容量を見るや開口一番なんと言うだろうか。
自分が“通訳”と云う頓珍漢な役職を与えられている経緯からも、七瀬が口を開いての抗議はしない断言できるけど、朝御飯を潰された次の瞬間に昼御飯を台無しにされたと知ったなら、四次元空間並に心が広い彼女と云えどご立腹なさるに違いない。
先の体育の時間といい本日の七瀬はつくづく運に見放されている。
尤も、現在進行形で自分達の燃料候補がすり減っているとしても、絵馬が彼に箸を止めてくれと言えるはずがないのだが。
日頃あれほど警戒されているだけに彼が自分を奇人扱いしている事はそれとはかなく気が付いている絵馬ではあるが、彼女は当の祥吾も充分変人の類にいると明断する。
祥吾は度々絵馬をナックルボールみたいに評すも、言動の一つ一つに突拍子がないのはお互い様だ。
しかして奇天烈なイマジネーションは方今も例に漏れず。
いきなり手を掴まれて屋上に連れて行かれたと思いきや、恰も待ち合わせでもしていたかのように弁当箱へ箸を伸ばしてくるのだから、一寸、本当に祥吾と待ち合わせていたのではないかと錯覚してしまいそうだった。
自惚れるつもりは毛頭ないけど人生経験上、話題の渦にいることに関しては慣れている。
絵馬は利己的な気質はしてない。かと云って七瀬ほど慎ましくもない。言いたいことはある程度口にする方だし、他人が自分を評価してくれれば其れを素直に受け止める、つまりは沙羅と七瀬の中間値に当たる女の子だった。どちら寄りかの明確な比重はともかく、手を繋がれた瞬時に顔を真っ赤にした七瀬と違い、絵馬は祥吾に手を繋がれた程度で動じない。
……が、僅かなクラスメートとしか打ち解けられていないこの微妙で多感な時期に、異性に手を引っ張られて連れ去られるなんて云う奇異な体験はできれば遠慮したかった。
加えて相手が悪評しか聞こえない近江祥吾と云う面を考慮すると話題性はダンチだ。
通称“秘密の場所”。ストレスを溜めに溜め込んだカップル達が束の間の情事に耽るために使用されると噂される此処第三校舎屋上は、本日も実に人気の無い閑散とした空間を提供してくれている。風が扉を叩く音や、互いの息遣いが一つ一つハッキリと聞こえてしまうほどひっそりとしていて、ベンチの一つも無い寂れた環境に身を置いているせいか自然と手を擦り合わせる機会が多い。よくもこんな辺鄙な場所に人が集まる。しかしこの蕭然とした様が、二人だけの時間を過ごすにはもってこいなのだと数々のカップルは語る。
……ううん。
無意識下に溜息が出てしまう。目の前に顕われた白煙はほうっと風にたなびいた。
猶予は軽く見積もってあと二十分。昼休み明けに待っているであろう詰問攻めを想像すると絵馬の口を付くのは重苦しい吐息だけ。そう云った女子高生的な遣り取りに悩まされることのない気楽な少年が憎らしいことこの上ない。
とはいえ、蔑みの唄を合唱する大衆に呼応するよう祥吾を疎ましがる腹積もりはない。
どちらかと云うと、あの祥吾がこんな大勢にヘイトスピーチされていたことに嫌気が差したほどで、感受性が強い沙羅とまではいかないけれど絵馬も確かな憤りを胸に秘めていた。
確かに祥吾は奔放すぎる嫌いはあるものの、然れども我儘とは異なった意味での不羈な気風に自身の理想を重ね合わせる者が多い。世の中には、どんな悪さをしても憎めない人と云うのが不思議と存在するが祥吾はそんな雰囲気をもっている。
でも此処ではそうはいかなかった。
聡明な賢者が一夜にして愚者に成り下がってしまったような、名高い魔法使いが突然呪文を唱えられなくなってしまったような――中学時代とは打って変わっての正反対の評価は、恐らく水に合う合わないに左右された結果だ。席を置いて日が浅い絵馬もひしひしと感得していることだが、周囲と足並みを合わせることを嫌う者にとって此処は色々と狭すぎる。自由を校風に掲げる海浜総合とは対照的に、新宿海浜の生徒は世間の期待に応えようと懸命に薄氷の上を走っている印象が強い。外部の重圧により進学以外に興味を持たせて貰えず、また、そんな重圧に押し潰されてしまい、自分達と同じ行動を取らない者を妬み、やがては集団で淘汰しようとする。
もっと肩の力を抜けばいいのに、と祥吾は稀にそのようなことを口にする。絵馬も同じ気持ちだ。この学校は、悪い意味で日本人らしい傲慢さと勤勉さが出てしまっているのだ。
「祥吾先輩、だから今日はそんなにも楽しげなんですね」
ポン、と、わざとらしく右手を左の掌へと打ち付けた絵馬が苦笑する。
「んー、おー、いつになく鋭いね、加藤。軽く見積もっても三倍増しだ。普段からそうしてくれていると僕も嬉しいよ」
意外そうな顔した後で、祥吾もにこりと笑う。
「ええ、まあ。心なしか顔が綻んでいるように見受けられますので」
心なしどころかモロに、ではあるが。其れに、にやけきった表情で判断せずとも、そんなにも耳元で指をくるくる廻していれば、彼を多少なりとも理解している者ならば誰とて気が付くだろうに――。ところが、癖とは結構難儀なもので、「ああ、この馬鹿野郎はまた妹絡みで浮かれてやがるのか……」と細い目になる顔馴染み達の呆れを余所に、本人のみがまるで気が付かない。
癖。そう癖だ。近江祥吾と云う人間はとにかく手先が五月蠅い。話をしながら身振り手振りを交える男は数多く居れど、其の振り付けが他よりも一割ばかし大袈裟なのである。
欠伸を噛み締めながら過ごす退屈な授業中だったり、湯に浸かって一日の疲れを落としている最中だったり、眠りに就く前に行なうほんの一瞬の瞑想だったり、ふと馴染みの少年を思い出そうとすると、真っ先に脳裡に浮かぶ景色は、拙い腕前の指揮者のようにぶんぶんと振り回される指と、片耳だけに付いている青色のピアスだけ。当人の自覚こそないも、彼の妹が上機嫌の時に見せる、耳の近くで指をくるくると廻す奇妙な仕草は兄の影響を色濃く受けている。
「何を隠そうこの近江祥吾、キミの言う通り、現在進行形で嬉しいを超越した感情に身を泳がせているよ。沙羅の言葉を借りるなら“超絶”嬉しいって具合だ。こんなにも生きていて嬉しいと感じたのは、七瀬が僕を初めて兄さんと呼んでくれた日以来じゃないかな」
どちらも七瀬絡みとはなんとも祥吾らしい琴線だ。シスコンもここまで来ると病気の領域に在るな、と絵馬は呆れずにはいられない。総司だったか瑞樹だったかは忘れたけど誰かが言っていた、彼はシスターコンプリートなのだと云う一説に絵馬は大いに賛同したい。
そもそも妹と手を繋いだ程度で人間はこんなにも清々しく笑えるものなのか――。
ただ、心がどれほど喜色満面な感動に征服されていようとも、いざそれを指摘されたとなると、普通の人なら照れ臭さから一度は否定しそうなものだが――逆に誇らしげに肯定する辺りが彼らしいか。弟と団欒しても嬉しくともなんともない絵馬からしたら、妹と親しくすることがどうして喜びに繋がるのかはさっぱり推し量れないが、七瀬が祥吾の寵愛を受けていることはよく理解しているため、わざわざ問うような真似はしない。
ついでに一時間ほど前に七瀬が池に落ちてしまい、現在は保健室で寝込んでいることも黙っていようと決めた。たった今決めた。でないと不慮の事故とは云え、七瀬を池に落としてしまった愚弟が文字通り病院送りにされかねない。
『近江先輩が手首をくるくると廻した時に感じた恐怖感と云ったら、ハンセンのラリアットポーズの比じゃない』
中学時代、保健室のベッドで目を覚ました冬馬の第一声はそんな感じだった。あの時は沙羅絡みだったが、今度の被害者は七瀬なので下手したら死ぬ一歩手前までいくかもしれない。
祥吾は“身内”には寛大な対応をする一方、そうでない者にはそれとなく冷めた振舞をする。今でこそ、かつて祥吾を敵視していた冬馬や瑞樹も輪っかに加われているが、それでも昔馴染みの関係に在る五人とは扱いに差がある。その中でも特に総司と沙羅に甘く、それ故、絵馬は自分と祥吾の距離が沙羅の其れよりも空いていることにかなりのジレンマを感じていた。祥吾が七瀬にとっての自分が沙羅以下である現実にヤキモキしている裏での出来事である。何故かはさておき、沙羅と云う子は誰某構わずマッチ棒扱いされる傾向が強かった。
「えーっと、私が先輩を兄さんと呼んだとしたならどれくらい嬉しいですか?」
「えーっと、言葉の意味がわからないや。
――ごめんな、キミのスルーパスに追い付けない師匠級のFWで」
一を十まですっ飛ばした風な突拍子のない質問を受けた祥吾は、ほんの一瞬こそ怪訝な顔付きをするも、すぐさま彼女がこう云った見当の付かないことを宣うのは恒例行事だと屠り、再び弁当へと箸を伸ばした。いつもなら頑なに躊躇する手が今日は快調に動く。そして毒物を胃へ送り込んでも逆流衝動が起きない。どうやら心だけでなく体までもが未曾有の幸福に歓喜しているようだった。
「は? FW?」
今度は絵馬が首を捻る。
「もう駄目駄目過ぎて、さっきの体育の時間もサッカー部に死ねだの殺すだの散々言われたばっかだよ。GKと1対1の場面を台無しにしまくった僕にも非があるけどさ、素人と経験者を同列に扱うのはどうかと思うんだよ…………ん、加藤、ちょいと水分プリーズ」
が、知らない単語を用いられての切り返しにキョトンとする絵馬を置き去りに、祥吾はそう告げると、飲みかけのパック型の牛乳へ許可無しに口を付けた。独特のズズッと云う効果音が鳴る。喉にこびり付いた物を胃へ押し込むよう勢い良くストローを吸った彼は、次第にスッキリした顔で口元を拭った。
「それは……お気の毒でしたね」
「ん、でもまぁ去年の球技祭に比べたら可愛いもんだよ。
バスケだったんだけどさ、試合開始五分足らずで5ファウルして退場させられた時は流石に気まずかったね。向こう一週間クラスの誰も口訊いてくれないんだもん。あいつらならまだしも総司も瑞樹も仇敵を見るみたいな視線をぶつけてくるんだぜ。そりゃB組に勝ちたかったのはわかるけどさぁ」
親友なのに酷いよな、と祥吾は項垂れる。序で地面に指を這わせてうじうじする。
絵馬の牛乳を勝手に飲み干しても意に介さなかったように、如何なる事象、どんなに自分が悪かろうとも、投げ掛けられる批判を気にする素振りなど毫も見せない悪童が斯様に傷心するのも珍しい。としても僅かな時間で退場してしまった失態を悔やんでいるのではなく、仲が良い友達に冷ややかな対応をとられたことが堪えたのだろう。
「バスケットのファウル判定はちょっとややこしいですからね。私も入り立ての頃は相当苦心しましたよ。どうして軽く触れた程度で反則を取られるのかって」
数あるスポーツの中でも、バスケットの判定は素人にはわかりづらい。
ただし、素人同士の試合なら審判も甘いジャッジをするのが定石なのだが――大方、当事者が祥吾だったために辛辣に裁かれたに違いない。
「しかし先輩、お得意な野球を選ばずにバスケット選ぶなんて奇特な選択をしましたね」
「沙羅にできて僕にできないモノなど在るわけないと高を括っていたのさ。が、よくよく考えてみると七瀬もやっていたんだよな、バスケ。退場してやっと其のコト思い出したよ。
――ふふ、笑うが良いよ。この賢しい僕を笑い飛ばすが良いさ!」
絵馬に責める気などこれっぽっちも無いのに、両腕を天に突き上げて祥吾が吠えた。一人で勝手に凹んだと思ったら、次の瞬間には一人で勝手にテンションをハイにする。一人走りが祥吾のモットーとは、遺恨関係からいつの間にか親友となっていた屋敷瑞樹の弁。かのNASDACみたいに浮き沈みが激しい生き様をしている祥吾を眺めていると、絵馬は自分がだいぶ常識人に感じられてしまうから不思議だった。
「次頑張りましょう。先輩なら今年はきっと活躍できますよ、私が保障します」
「うんうん加藤は優しいね。沙羅に加藤の爪の垢を1キロばかし飲ませてやりたいくらいだよ。もちろん煎じずダイレクトにね。
――うむ、これはアレだな。アレだ。君のスルーパスには追い付けないお詫びっちゃアレだけど、今この瞬間だけは加藤の芳しくない料理の腕も手放しで誉めてあげようぞ。
はは、この唐揚げ超不味い。小学生の頃に飲んだ漢方薬に似た味だぜ」
「な……慰めてあげた矢先、私の手作り唐揚げを漢方薬と同列に扱うなんて……」
「ハンバーグは養命酒の味がするし、スパゲッティはキャベジンだ。凄いな加藤。贅沢なくなまでに健康薬品だらけじゃないか。こういうのって地味に値段が張るんだよね」
「ちょ、ちょっと待ってください先輩。矢継ぎ羽矢に飛んでくるトンデモ感想に、私は今頭がかなり錯乱しています。容量を超えるとフリーズしてしまうので、以後、過度な批判は慎む方向で宜しく御願いします」
「えー、ここからが良いトコなんだよ?」
「それでも御願いします」
ハンバーグが養命酒で、スパゲッティが胃薬。でもって唐揚げが漢方薬だから――次はコロッケ辺りが成分の半分が優しさでできているあの頭痛薬と結びつけられてしまいそうで恐ろしい。……いや、そうじゃない。そこじゃないだろ、私。
それよりも自分の発言を一秒で覆した所を指摘しないと――。
大体美味しくないと思っているなら嫌々口に入れなければいいのに――。
祥吾の口に合わないとかどうとかではなくて、一応私の昼食なんだけどな、コレ――。
もう突っ込み所が多すぎてどれから指摘していいのかわからない。
兎にも角にも心の中で不満を述べる顰めっ面の絵馬を気遣ってか、祥吾がのんびりとした口調で、
「加藤は料理さえできれば完璧超人の仲間入りなんだけどね。うん、実に勿体ない」
だなんて当たり触りのないフォローを寄越してくるも、絵馬は其の賛辞を鵜呑みにはしようとは隠微にも思わない。
にこやかな笑顔と言い淀むことなくすんなり出てくる言葉群。
彼の科白は自分を誉めているようにしか聞こえないけど、かと云って、正当な意味での完璧人間を知っている祥吾だけに単なる社交辞令としか受け取れないのだ。
いつだって祥吾はそうだ。部活ではガチガチのクラウターとして馴している癖に、ことプライベートに関しては、誰かと顔を合わす度その場凌ぎの嘘ばかり口にする。
一つ、祥吾と自分とで適当な遣り取りがあったとしよう。先輩と後輩らしく、会話の軸を提起してきたのは彼で相槌を打つのが自分と云う温順な構図でいこうか。
基本、祥吾は語彙力の豊富さを駆使したユニークな物言いをするし、自分も純粋に其れが面白かったからいつまでもその話題が記憶に残っている。故に時間の都合上話が途中で終わってしまった際はすぐさま続きを訊きたくなったり、時として自分なりの顛末を想像してみることもある。ところが彼はそうではない。次に顔を合わせた時に「この間○○の話をしましたよね?」と尋ねてみても、祥吾は自身が会話の題材として取り上げた話題を、さも初めて訊いた風な素振りを見せる。単に物覚えが悪い気質なのかもしれないけど、祥吾は朝以外の記憶力は抜群に優れているため、うっかりミスとかの類はほぼ有り得ない。
――つまりそう云う意味なのだう。もう分かり切っていることだけど、たぶん彼は興味が在る人間の言葉しか覚えていないのだ。
「飯は上手く作れるに越したことはない。男には要らんスキルだけど、女の子は容姿や物腰よりも料理は上に来るんだぜ。そうしたらきっと加藤はもっともっとモテるぞ」
従って彼は、自分が誰の言葉を切っ掛けにしたくもない弁当作りを始めたのか、記憶の片隅にも残っていないに違いない。
「ですからこうやって毎日毎日御弁当を作って鍛錬しているんです……もう。先輩、女の子の手料理を健康薬品扱いするなんて失礼の極みですよ?」
彼を取り巻く環境を強く認識している絵馬は知らず知らずの内に口を尖らせる。
女の子の料理の腕前を愚弄するのが禁忌中の禁忌ならば、誰かと比べてではことさら気持ち良くない。其処は美味しくなくとも笑顔で旨いと言ってやるのが男の甲斐性と云う役割だろう。七瀬もしばし口にするけど祥吾は女心をちっとも理解していない。
「なんだ、加藤。あれだけモテてもまだ足りないのか。キミはアレだ、向上心の塊だな。何れどんな男もイチコロのヘル・ガールになる未来が約束されてるね」
「言いたいのはそっちじゃありませんし、仮にそっちだとしても意中以外の相手に好意を寄せられても嬉しくともなんともありませんよ」
「んなことはないだろ。意中の男だって今頃きっとイチコロになってるんじゃねぇーの」
「どうでしょうね。私見ですと100%私なんて眼に入っていませんよ」
「おいおい随分な謙遜をするじゃないか。加藤、いい機会だから覚えておくと良い。才覚優れた人間の謙遜は極上の嫌味にしかならないってことを、よく胸に刻みつけておけ。
現に頑丈しか取り柄がない僕を見てみろ。くっついては千切れくっついては千切れ。何遍破局し続けていると思っているんだ」
祥吾は他人事のように言う。肝胆相照らさずとはこのことだな、と、内心空き缶を蹴っ飛ばした絵馬が小さく吐息を漏らした。蹴飛ばした空き缶は優に十メートルは飛んでいく。
祥吾が付き合った子とすぐに別れてしまうのは、祥吾自身がその子に興味がないのが原因なのだ。恋人関係に在ったとしても、まるで赤の他人と語らうかのように甘い視線を与えてくれない。待ち合わせをしても時間通りにやって来ないわ、デートの約束を平気ですっぽかすわ、誕生日が近くに控えていると伝えてみてもすっかり忘れるわで、一つ関係が進むと祥吾は普段以上にやりたい放題の暴挙を見せる。
クイーンと呼ばれる絵馬には遥かに及ばないとしても、祥吾もそれなりの容姿をしているので一定の人気を持っている。いや、容姿よりも性格か。此処、新宿海浜に於いては祥吾を嫌う人間が多くを占めているが――露骨なまでに嫌悪感を顕わにしている子の中には、大衆に従わざるを得なくなっているだけで、内心では彼にどっぷり惹かれているパターンが存在する。世間でもよく見られる光景だけど、日常茶飯事机にしがみついて勉強している真面目な子ほど、常識に捕われない“脱線人間”を思慕してしまう。ましてや祥吾は妹、幼馴染みに存分に甘いため、彼に憧憬を抱く子は、普段の素っ気ない祥吾と優しい祥吾との“ギャップ”を自分も手に入れられるとすっかり勘違いしてしまうのだ。もちろん、内実はそんな展開には進まない。誰と付き合っても祥吾はずっと祥吾のままだ。雲は遠くに在るとその存在を強く感じられるけど、近付けば近付くほど姿は段々見えなくなってしまう。虹のように輝いていた理想は文字通り霧散する。
挙げ句、祥吾は想いを告げられてもほとんど断らないので犠牲の連鎖は順調に広がっていくばかり。中学時代からの悪癖に何十人の女の子が犠牲になっていったことか。精確な数を測ろうとすると、とんでもない数値を目にしてしまいそうなので、絵馬には親友達同様目を細めることしかできないが、その反面、彼女は多くの友人の涙で肩を濡らしながらいつもこう考えていた。――――私は我慢できる、と。
だけど、自分なら滞りなく協和できると自信をもって告げられる絵馬の気持ちとは裏腹に、肝心要の祥吾が自分を避けるのだから、彼女の想いが成就する見込みは限りなくゼロに近い。同時に絵馬自身もそうなることは万が一にも有り得ないと諦めきっている。
そして、私にはこの立ち位置がお似合いなのだ。昔から欲しかった物が手に入った試しはなかったじゃないか、と諭すように言い聞かせるのだ。
常に大衆の一番上に居ると謳われる無欠の少女が、二番狙いの人生を歩んでいると訊かされて誰が信じようか。――いや、解釈が多少異なるか。彼女の中では歩まざるを得ないこととして扱われているのだから。
ちょっと昔話をしよう。数スクロールで済む程度の簡素さのを。
幼い頃の自分は沙羅が大好きだった。金魚のフンと呼ばれていた絵馬少女は其の異名の通り、来る日も来る日も沙羅の後ろに着いて廻っていた。しばしば沙羅の何処に惹かれるのかと訊かれることがあったけど、大人に叱咤されることなど意に介さず、自由奔放に振る舞える沙羅は、人の眼を意識することばかりに気を取られてた弱気な自分にとっての憧れだった。
雨の日も風の日も雪の日も、自分は同じ毎日を繰り返す。御陰様で自分の幼年期の思い出といえば沙羅しか出演しない有り様となってしまった。いわば沙羅は絶対的な教科書だった。沙羅が地域のバレーボールチームに入れば当然絵馬も後に続き、やがてバレーに飽きてバスケットに鞍替えした時も二つ返事で着いていった。運動神経が致命的に切れていると思われた絵馬の身体は、歳を重ねていく内に真逆の体質となっていった。暗めだった性格もそう。彼女に着いていけば不得手な事柄は総じて克服できた。
為に、沙羅が最も気に懸けていた少年を敵視していたのも条理と云えよう。
絵馬が沙羅を追い掛けていたのなら沙羅もまた祥吾の背中を追い続けていた。
沙羅がバレーを始めたのは祥吾が母親の付き添いで其処に居たからで、中学時代にいきなり縁もないバスケットを始めたのも祥吾が頻繁にバスケット部を見に行っていたから。
沙羅の一途さは今も昔も変わらない。だからこそ幼年期の絵馬は度々苦心させていた。
沙羅を独り占めしたいけど祥吾は怖い。怖いから沙羅の背中に隠れるしかない。そういった内気な絵馬に祥吾も苛立っていたのか、祥吾の絵馬を見る目も酷く厳しかった。
どうしたらいいのだろうか。どうすれば沙羅を祥吾から取り戻せるのだろうか――一人では解決できない障壁を前に、絵馬は日に日に心を暗い気持ちで満たしていく。
そんな絵馬にささやかな僥倖が訪れる。
あれは小学校低学年の頃だったか。どうというわけではない。畏怖していた少年が大怪我して自分の前を通ったのだ。額から血を大量に垂れ流し、よろよろとした覚束無い足取りで公園を横切っている。そんな弱々しい祥吾を見た絵馬は千載一遇の好機としてトドメを刺そうと目論んだ。いつもなら到底敵わない。沙羅の背後で震えているしかない。でも今は違う。弱っている。これなら私でも殺れる。雨の日の公園を血まみれの少年が危うい足取りで歩いているのだ、子供心ながらに偽装殺人がし易いシチュエーションだとほくそ笑んだものだ。
――が、現実は病人に鞭を打つどころか彼の手当をしてしまったのだから、絵馬は結局のところ愚者に成りきれなかったのだろう。
ぶるぶると手を震わせつつも祥吾の額を拭っている自分を振り返って、一体私はどうしてこんなにも間抜けなことをやっていたんだろうかと考えたりもした。
答えが見付かった頃、凡そ三年もの時間が過ぎていた。
祥吾のことを考え続けて、祥吾とは一切顔を合わせなかった三年間だった。
やがて絵馬は制服を着るようになって、祥吾と久方ぶりに出逢う。
再会は沙羅に付き合ってバスケット部へ入った初日だった。ところが彼の方は絵馬と再会したとは思っていなかったようで、顔を合わせなくなって数年しか経っていないというのに、「初めまして」と恰も初対面のように挨拶された折りは純粋に悔しさを覚えた。死に体の状態を救ってあげたにも関わらず、其の救世主の顔を覚えていないとはなんたることか。人間として欠陥があるのではないだろうか。いくら不平不満を胸中に募らせようと祥吾には一句も届かないと知りつつも、絵馬は祥吾の忘却癖を嘆かずにはいられなかった。
おまけに祥吾についての災難は続く。
いつしか幼い頃の自分が沙羅にそうしていた時と同じ気持ちで祥吾を見つめるようになってみたら、彼の眸には別の子しか映っていなかったのだ。それも幼い頃から祥吾を追い掛けていた木住沙羅ではなく、まだ名字が近江じゃなかった少女――その子は寡黙ながらもやけに礼節深く、そして物心着いた頃から親しかった女の子だった。
七瀬と対峙した時の祥吾はなんとも凄かった。マシンガンと云われるくらいもともと多弁な人だったけど、七瀬に語り掛ける際の舌の動きは軽く三倍増しと見て良い。有無を云わさずよう、叩き込むかのよう。だとしても、通知票に於いて家庭科を除く教科で評定5を連発させていた優等生気質の七瀬が、真逆の性質を持った人種を受け入れるはずがない。祥吾の度重なる来訪を酷く迷惑がっていた七瀬の姿を絵馬は今も鮮明に覚えている。
嫌悪感丸出しの七瀬と溌剌とした立居振舞の祥吾の遣り取りは海浜第一中学バスケット部の名物でもあった。ついでに沙羅の妬み嫉みが風物詩に彩りを添えていた。
さて、あれだこれだと悶々としながらも始まった部活生活。
バスケットに対して、これっぽちの知識もないずぶの素人だった絵馬は、まずは希望するポジションに七瀬がいると知るやすぐに場所を移した。彼女は高校生となった現在でもチームの主軸となるポジションに就きたいと願っているものの、同じ高校に七瀬がいる限り叶う見込みはない。諦めが早いと窘められるかもしれないが、無理なものは無理なのだ。努力しても叶わないものは必ず存在するし、不運にもそう云う機会と巡り会ってしまった際は素早く英断しろと去年亡くなった叔父から教えられていた。彼曰く、それこそが世の中を上手く渡り歩くコツなのだと。
満期で六年のバスケ人生、未来的な意味も含めて最後まで理想を手に入れることは出来なかったけれど、そういった判断力の良さが生きてほとんどをピッチ上で過ごせたのだから結果的には良かったのだろう。
それに、七瀬に無謀に挑戦し続けた沙羅は悲しくも三年間ずっと控えだった。
練習試合には数多く出れても公式戦での出場はたったの一度も無い、日陰の役割。
世間には縁の下の力持ちと云った響きの良い諺があるけど、では自分が其れに耐えられるかと訊かれれば答えはノンだ。好きな役割をこなしたいがために控えになるのと、そうでないけど試合に出れるのとでは後者の方が良いに決まっている。誰が好き好んで敗者になる道を選択しようか。ノーリスク・ハイリターンこそが賢い選択なのだ。
けど沙羅は現実的にそうしてみせた。沙羅は七瀬と親しい間柄にあるにも関わらずどうしてか張り合いたがる。そしてその都度決まって負けた負けたと爽やかに笑うのだ。
小さい頃から運動に励んでいた甲斐あってか身体能力自体は経験者であった七瀬と遜色ない沙羅だったが、彼女はゲームを作るための頭が決定的に不足していた。残念なまでに木住沙羅と云う女の子を司るべく配線板が焼き切れていた。才能を無駄に浪費し続ける様を見かねた祥吾は沙羅を“ベアナックル”と言っておちょくっていたけど、その喩えがなんともしっくり来ること。
してもエース級の戦力をベンチで飼い殺すのは勿体ないと、幾度と無く他のポジションへの転向を進められるも――沙羅は頑として首を縦に振らなかった。おかげで他校からは贅沢過ぎるバックアッパーと皮肉られていたものだ。余談だが、当時の監督は周囲に沙羅を意図的に冷遇していたと勘違いされたらしく、指導者としての慧眼、指導力が滅茶苦茶疑われたとか。
だが、時は経ち、沙羅も七瀬同様に特待生としてとある高校に迎えられることとなる。
常識的に考えれば権威在る大会で活躍した者だけに推薦枠は与えられるものなのだが、沙羅に関しては逆に公式戦に一度も出なかった災難が功を奏したのか。普通なら四〜五校から誘われても不思議じゃない実力を持ちながらも、実際に声を掛けてきた高校は海浜総合だけ。つまり海浜総合はドラフト一位級の選手を競合無しに手に入れられたわけだ。
とはいえ、沙羅の名が七瀬並に知れ渡っていたとしても彼女は海浜総合の門を叩いていただろう。バスケット部の戦力が芳しくなかった新宿海浜が七瀬を三顧の礼で迎えたこともそうだが、海浜総合の監督、瀬名理津子の沙羅への惚れ込みっぷりときたら相当なもので、たとえ十年に一人の逸材と評される近江七瀬がうちの高校を希望してきたとしても、自分は迷わず木住沙羅を選ぶと豪語しているくらいだった。
新宿海浜の顧問には七瀬を取り損なった負け惜しみだと鼻で笑われているも、中学一年生の頃から沙羅の才能に惚れ込んでいたとされる理津子は、近い将来沙羅が入学してくると見込み、二年前より沙羅を中心とするチームを作り始めているため、件の発言が強がりがもたらしたものなのかどうかを判断するには現時点では尚早だ。
早ければ地区予選。遅くとも十一月にある合同スポーツ大会には実現する親友同士の対決を、絵馬は他の誰よりも楽しみにしている。願わくば中学時代に三人揃って全国大会に出たかったけど、其れが叶わなかった以上、代償を代償と思わずに済む結果を沙羅に見せて欲しいと切に願っている。
いつだって損得勘定お構いなしに我が道を歩み続ける沙羅。最近の彼女は自分を崇めるような眼差しを向けてくるけど、絵馬は幼年期から沙羅に憧憬を抱きっぱなしだった。
「あ、では先輩。沙羅と私とではどっちと付き合ってみたいと思えますか?」
だからなのか、時折彼女を引き合いにしての質問を繰り出してしまうのは。
「私達なら、どちらを選んでもきっと長続きしますよ?」
羨望の裏返しは嫉妬だ。今ならあの頃の沙羅の気持ちがすっぽりと汲み取れる。自分は沙羅を尊敬している。だから……だからその子に挑みたいと思う。
からかうような語調で絵馬は祥吾に微笑みかけ、そのまま唇を軽くなぞる。ひやりとした感触が小指を伝った。
悪戯っぽく微笑み、小指を唇に当てる仕草は絵馬が自分では気が付けない癖だった。
祥吾は絵馬のこの仕草が少々苦手だった。加藤絵馬が持つ嬌艶な顔立ちが、より一層艶めかしく煌めくのだ。
「……咄嗟にわけわからん事を訊いてくる子だね、キミは。質問に対しての答えとはちょっとずれるけど、手早く妙な空気を作るスキルに於いては沙羅を遙かに上回るよ」
またも奇抜さが予想の範疇を超えていたらしく、祥吾が渋い顔で答えた。
苦みのある表情とともに、今回はその場凌ぎのカモフラージュはしないようで、控えめに右手をしっしとさせ、質問に答えるつもりがないことを絵馬にアピールする。
「君のコメントは全盛期の伊藤のスライダー並に曲がるから困る。でもま、ひとまずは奇天烈さで一歩リードだな。やぁやぁおめでとう」
「そんな部分で勝ったって少しも嬉しくありませんよ。誉めるならもっと別の部分を誉めて下さいよ。よりによって、と云うポイントじゃないですか」
「なにを言う。他じゃ加藤の圧勝だよ。わざわざ比べるまでもない。
むしろ御教授して頂きたいもんだね。あいつの何処が加藤に勝っていると言うんだい? 沙羅と書いて馬鹿と読むのは万国共通のルビだろ。そこらにいる外人に沙羅って知ってますかと尋ねてみると良いよ。間髪入れずビッチと答えるから」
「ううん、それはちょっと言い過ぎですよ、先輩……。仮にも沙羅は女の子なんですし。この場にあの子がいたら物凄い剣幕で怒られちゃいますよ?」
「うんにゃ、言い過ぎなんかじゃないね。あいつは残念を通り越して無念の域に入りつつあるよ。まさに残念円熟期だよ。野球のベテラン選手みたいに、円熟味溢れるザンネンをお茶の間に提供してくれるんだ。――知ってるかい、先週の話?」
「先週?」
先週……先週……先週……と呪文を唱えるように反芻するも、特段思い当たる節がないので絵馬は尋ね返した。
「駅の構内でプカプカ煙草吹かしてたガキへ沙羅が注意しに行った話だよ」
「いえ、訊いてないですね。初耳です」
「ま、大恥こいた出来事だったからな。プライドが無駄に高いあいつが喋るわけないわな。
――んじゃ、ざっくらばんにお教えしようじゃないか」
何処から話しましょうかね――そう切り出した祥吾は面倒臭そうに頭を掻くけど、ぶっきらぼうな態度とは裏腹にその時の楽しげな顔と云ったら、澄明とした青空と相俟ってビー玉みたいに透き通って見えた。
祥吾の話を要約するとこうだ。
沙羅と隣町まで繰り出した時、駅の構内で一人の女子中学生が煙草を吸ってたそうだ。
でも中学生と云っても、金髪にピアスと云う身形をしていたらしく、見た目に気圧された駅員や他の乗客達は、その子が明らかに中学生ってわかっているのに誰も注意にしに行けなかった。みんながみんな黙り。彼らは往々にして目の前で起きていることを無かったことにしたがった。
そんな情けない有り様を見ている内に沙羅に流れている警察官の血が騒いだのだろう。虎穴に入らずんばを説く祥吾を振り切って、一人中学生の元へと向かっていったそうだ。
「沙羅らしいですね。ちょっとした悪も許せない子ですから、あの子は」
沙羅を語るとその一言に尽きる。
その直線的過ぎる性格のせいで、私生活が乱れていた冬馬と折り合いがつかず、彼女達は顔を合わせる度に大喧嘩をしていた。どっちにも付けない絵馬は両者を窘めるが、どちらも自己主張が極めて強いタイプなため譲歩することを知らない。どちらが正しいか決めるなら沙羅が全面的に正しい。沙羅は正しいことしか言わない。事ある毎に冬馬に食って掛かるのも単に曲がったことが嫌いなだけで、自分の感情に素直な子だった。
「ま、そこがあいつにとっての唯一の長所だな。――だけどね、ご存じの通り沙羅は常識のナナメ上を行くのさ。こうグイッとなんだそりゃってな感じで。
あいつ、ガキの傍まで近寄ってなにをしたと思う?」
「御説教ですか?」
「それがな、ガキが銜えていた煙草を奪い取り、『お嬢ちゃんにはまだ早いわよ』だなんて科白を吐くんだよ。――いや、ここまではいいさ。単純にあいつの頭が残念な造りをしていると周囲に披露しただけなんだから。
でも問題はこの後だ。ポカーンとするガキに年輩者の威厳を見せつけたかったのか、あの馬鹿調子に乗って奪い取った煙草を銜えて一吹きしたんだよ。『煙草は私みたいに大人になってから好きなだけ吸いな――グオゥフェへッ!!!!』とよ。……もうね。ホントにあいつの頭はどんな構造をしているのやら――、一度で良いから拝見したいもんだよ。
そもそも煙草は二十歳になってから初めて吸えるもんだが、煙草のきつさに一瞬で咽せ、地面に跪いたあいつを見ていたら不覚にもツッコミを入れるのが申し訳なくなっちゃってな。
しかもさ、この時偶然JRのお偉いさんが通っちまってな。制服姿で煙草を銜えていた沙羅を見付けるや否や『高校生が煙草を吸うとは何事か!』とブチ切れしなすったからさぁ大変だ。問答無用で親御さんと学校に連絡されるわ、『その子はうちの子ではありません』と親御さんに引き取り拒否されるわ、代わりにやって来た舞夜が涙まみれで土下座するわ、学園の責任者として現われたバスケ部の顧問には額を灰皿変わりにされるわで、次から次へと眼を覆いたくなる大惨事の連発だよ」
「…………」
いつもはフォローする立場にある絵馬も今回の出来事を耳にしては流石に言葉に詰まる。自分事ではないのに何故か自分の心の整理がつかない。中学時代に、マイナス方面の伝説に事欠かない沙羅に敬意を払い、彼女の名字を捩った“コズミック・トラベル”と名付けられた記録用ノートが存在したが、この話はその中でも中位にランクインするくらいのとんでもないエピソードだった。
おまけに舞夜が額を地面に擦り付ける姿が、安易かつ鮮明に思い浮かんでしまうから困る。祥吾が七瀬に身の回りの世話をやらせるのと同じように、沙羅がドジを踏んで舞夜が土下座して謝罪する構図は幼年期より慣れ親しんだ情景だった。子供の頃は其処に親御さんの拳骨が一発二発加わるのだが、この歳になっても失態ばかり犯し続ける沙羅に嫌気が差したらしく、木住家に於ける沙羅の保護者は近江家の長男となっている。祥吾も沙羅のお守り役を煩わしがっているものの、少年時代の彼曰く『自分以上に駄目な人間を初めて見た』とのことで現在のワンサイドな関係に至る。
「もう懲り懲りだよ……いやマジでね。日本って一億三千万人もいるんだぜ。なのに、なんであいつと腐れ縁になっちまったのかね。神様の気紛れにゃホント参るよ」
加藤も面倒臭いよな? と絵馬に同意を求める祥吾ではあるが、やはり彼の表情はとても柔らかかった。年がら年中、事ある毎にヘマをしでかす沙羅の様子を思い返してか祥吾は楽しげにクックと喉を鳴らす。絵馬もつられて笑った。流麗とした少女が悲惨な目に遭っている姿を脳裡に浮かべるだけで御飯が三杯食べられそうだった。
唯我独尊。泰然自若。ゴーイングマイウェイ。王権君主を敷いた王様みたいに何処までも不遜な少女は、一人の少年を前にすると途端に一発狙いのホームランバッターの如く空回りし続ける。平生とはてんで違った振舞をする親友を眼にする度絵馬は考える。凛々しい顔立ちをした沙羅をあんなにもコミカルに扱える人間は広い世界を隈無く探してもせいぜい祥吾くらいだろう、と。
――――そして此処なのだ。
何気ない遣り取りに含まれる、決定的な扱いの差に絵馬は無意識下に唇を噛む。
活発な少女へと向けられる祥吾の眼差しはいつだって優しい。どんなに呆れさせたって、どんなに苦労を掛けたって祥吾が沙羅のお守り役を放棄することはない。引っ込みがつかなくなった冬馬が沙羅に危害を加えた時も、祥吾は猪一番にやって来た。普段ののらりくらりとした調子が嘘のような憤慨ぶりだった。絵馬が祥吾の激越した振舞を見たのは後にも先にもその一回だけである。
七瀬が云うには二度存在するらしく、その時はもっと凄かったらしい。目にしていないため、果たして其れがどれほどの凄さだったのか絵馬には想像もつかないが、自分がそういった目に遭ったとしも三度目を喚起させる要因になり得ないことは確かだ。
「……何処が違うんだろうな」
聞こえない声量でぼそっと呟いた。意識せずに勝手に言葉が口をついていた。
自分も沙羅のように積極的に過ごしていれば其処に加われたのだろうか――。
彼に優しい眼で見つめて貰えたのだろうか――。
「まー、でも今朝は驚いたな。沙羅が加藤そっくりの口振りで現われるもんだからすっかり他人と勘違いしちまったよ」
思い出した風に感心する祥吾を見て絵馬は若干眼を細めた。
「……沙羅が私みたいな、ですか? ……ちょっと想像できませんね」
自分とそっくりの口振りと云う事は敬語を用いたと云う意味か。言葉遣いと云われると、粗悪なイメージしか湧いてこないあの子が敬語で祥吾に語り掛ける光景などちっとも思い浮かべられない。理由はとんと不明だが、どうしてか沙羅は祥吾を下に見ようとする。彼らは頻繁に遊びに出掛けているが、誘うのは決まって祥吾の方。沙羅はプライドが高いため、自分から祥吾を誘えない。四六時中遊びに連れて行ってオーラを醸し出している沙羅を見ていると、見ている方が不憫になってくる。
祥吾に敬語を使う沙羅。祥吾に頭を垂れる沙羅。祥吾に甲斐甲斐しくする沙羅。
そういった日常風景のおかげで、行き先が指定されたジグソーパズルに興じていると云うのに、完成まであと一歩のところでモザイクが掛かってしまう。
「……いえ、ちょっとじゃないですね。まるで想像できませんよ。沙羅のそんな姿を見たら親御さんは卒倒するかもしれませんね」
「うん。僕もあいつの慇懃無礼な姿勢なんざ生まれて初めて見たよ。ほんの少しの間だったけど、カトリック育ちのお嬢さんみたいに振る舞うんだぜ」
普段からもっとああいう風にしていりゃモテるだろうに――祥吾は深い息を交えてそう言葉を繋いでいく。
「無念さが目立ちすぎて常日頃忘れられがちだが、一応舞夜の妹だからな、あいつ。
身形はそこそこいいんだ。気性の荒ささえ直せば周囲は放っておかないと思うんだがな。どうよ?」
「いえいえ沙羅が可愛いのは昔からですから。で、先輩は礼儀正しい沙羅を見てドキリとしました?」
「僕かい? 僕は遠慮しておくよ。あいつを見ていると必要以上に手が掛かりそうでね。
知っての通り、僕は世話を焼かれるのは好きだけど、焼くのは嫌いなんだよ」
その割には面倒見が良いところを見せつけるので、本心がどこに在るのかはわからない。
「それに堅苦しい人間は御免でね。偶に顔を合わせる程度ならああ云う方が好きだ。
でも毎日となると砕けたカンバスレーションの方が僕は好きだね。――なぁ七瀬?」
第三者に同意を求めるように悪戯めいた言い方をする祥吾。
祥吾の言葉に促され、絵馬は首だけ後ろを振り向くと、そこには、空となった弁当箱を見つめて身体を震わす親友Nが居た。
<<時間が来たので今日はここまで。続きは明日以降で>>
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