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U.七瀬と沙羅と
「うぉーい! まだかよ七瀬ー! お前がとろとろしてっから僕の暇レベルがついにC4に突入しちまったぞぅ!!」
一足早く道路へ出ていた祥吾が叫ぶような口調で投げ掛けた。両腕を天に突き上げ、腹の底からは耳を塞がずにはいられないほどの轟音を絞り出す。寝覚めが悪い割には、彼の双眸は、起き抜けなど何処吹く風と云った具合にバッチリと開かれており、その大きく開かれた眸は祥吾の気性の強さをそっくりそのまま表わしている。箇所という箇所、あらゆる身体の可動部分を用い、自らが如何に退屈をしているかを表現する彼のその騒々しい様子を眺めていると――、そうだな、頬を愛でるよう落ちた柔らかみある陽光を帯びる現時に於いて、彼の時間軸にのみ四半ほどのラグが生じている風に窺えた。
彼が口にしたC4とは歯学用語、虫歯の進行具合を指す。無論、祥吾が歯痛に苛まれているわけではない。苦しみを感じている事は事実だが、それは延々と続く手持ち無沙汰な時間に対して。直線的な性格をしている祥吾は感情が態度に表れやすい。今回も余程疎ましかったのだろう。誰かを待つ、と云う行為を好ましく思わない彼が捻り出した声は兎にも角にも通りを歩く人々の鼓膜を強烈に揺さぶった。
もともと祥吾の声はかなり大きい部類に入るが、今みたいな状況だと一層際立つ。
古くより此処に住み着く老人達が声を揃えて大門様と崇めるお地蔵様が在る、通称“大門通り”の朝は、子供達の甲高い笑い声や乗用車が放つエンジン音が絶えず飛び交っている日中とは全く異なる顔をしていて、今も、がらんとした道路に立つ住人の息遣いと、彼らの靴の先端部がアスファルトを叩く音だけが背景として成り立っている。祥吾の他に通りに居る人物と云えば、掃除当番の責務を全うしているらしき中年女性とスーツ姿の実直そうな男性諸々。それと、数に含めて良いものなのか微妙ではあるが、猫が三匹、収集ネットの中に入れず、散漫に放置された無防備なゴミ袋を漁ろうと街を徘徊している。
言わずもがな、掃除当番と野良猫は相見えぬ関係に在る。祥吾が道路へ出たと時を同じくして開始した人種を越えた戦は、統べている領域へ近付いてきた猫達を追い払おうとした当番員の効果音と、竹箒を振り回されてしまい、遠巻きからしか応戦できない猫の鳴き声がひたすら交互に鳴り響いていた。実に日本らしい、のんびりとした朝の風景ではあるが、当事者としてはそうそう和んではいられない。
肉体の限界を超えた運動の末、青色吐息ながら猫を撃退できたとしても所詮それは束の間天下。何回何十回と薙ぎ払ってみせても、奴らはその都度不屈の精神を発揮し、戦場へと舞い戻ってくる。あの手この手を懲らしての攻防戦に終わりはない。円滑な人間関係を築くために通らなければならない道とはいえ、なんとも悲しい堂々巡りではないか。
今もそっと耳を澄ませば、途端に荒々しい息が聞こえる。それも青息吐息が。
彼女らが争う様子を祥吾は直接目にしていないが、それでも、向こう10mは離れた場所で繰り広げられている戦闘の行方は逐一彼の耳へ届いている。きっとこれは向こうも同じで、周囲が見えなくなるほど鼬ごっこに没頭してなければ、祥吾がわざとらしく立てている地面を叩く音も、意味もなく鞄を振り回す音もしっかり聞き取れるはずである。
にも関わらず、しんと静まった辺りなどお構いなしに張り上げられた祥吾の声は、両隣に構える民家にも明瞭かつ明快に聞こえてしまいそうなほど喧しく、だからか、玄関前でのろのろと緩慢な動作をしている七瀬へ向けたと云うよりも、もっと遠くにいる誰かを呼び止めるためのもの――そんな力強さを伴っていた。今にも車と接触してしまう危なげな歩行者を引き留めるような。しばらく会っていなかった友人を街の往来で見付けた時のような。通りを歩く人々は往々にして、祥吾の怒号とも取れる大声が辺りを駆け抜けた刹那、何か大層な出来事でも起きたのだろうかと訝しがっている。
やがて銘々が緩やかに進めていた足を止め、ふと声がした方に顔を向けてみると、其処では一人の青年がなにやら大騒ぎしていた。もう一つ視線を横にずらすと後ろ姿の少女もいる。青年が浮かべる表情の渋さから察するに、どうやら彼女が騒ぎの的らしい。
次に、少女が少年に大声を出させた切っ掛けが気になった。面白い事でも起きているのか。それともつまらない事か。ここからではどちらなのかは確認できない。ただ、どちらでも構わなかった。人が人を観察すると云う視覚的な感覚はビデオを眺めるそれに近い。
歳を食った人間にとっての人生とは、朝起きて、床に就くまでの間のほとんどを決められたレールの上で過ごさざるを得ない、いわば終わりのない究極の反復運動だ。
のっぺらぼうな毎日。代り映えのない風景。眸を閉じた時に感じる一瞬の後悔。
だからこそ、たとえ其れが取り留めのない瑣末な事だとしても、娯楽性を孕まない日々にささやかな彩りを添えてくれるのならば、是が非でも目にしておきたいと切望する。
――ところが、そう心を躍らせつつ彼らの挙動を見つめていても、一向に興趣と成る騒ぎは起こらず、むしろよく見掛けられる有り触れた日常の一幕しか流れてこない。
季節を彩るように絢爛と咲き誇る桃色の木々の元、真新しい碧色の制服に身を包んだ青年が嘆息混じりに少女を急かしている。眉間に皺を寄らせ、傲慢そうに両腕を組み。早くしてくれ。これ以上待たせるな。時折、そう云ったニュアンスの言葉が耳を打つ。
一方、少女の表情は玄関と向かい合っているため窺う事はできない。催促されているにも関わらず、手足の速度を上げないところを見るとたぶん悪びれてはいないだろう。
この若者二人が織りなす平凡な光景を視界に捉えるや、各々は、まるで寝坊癖の直らない幼馴染みを外から起こそうとする、あの古式ゆかしきの光景を思い起こさせられた。誰もが一度は経験したであろうあの儀式染みた習慣を。
とはいえ、あちらこちらから惰性の象徴と揶揄される祥吾が、誰かの面倒を見るなんて殊勝な真似をする事はまず有り得ないわけで。おろし立てに見える制服についても、先月“新宿海浜”の門を叩いたばかりの七瀬なら得心できるが、順調に行けば今年限りで学園を去る身分の人間が新品同様のそれを身に纏っている事は至極おかしな話だった。
「おーい、仏頂面でお馴染みの七瀬さんやー。保護指定動物みたいに虚弱な僕をこの寒空の中いつまでも待たせないでおくれよー。いい加減、退屈で退屈で死にそうだよー」
祥吾は、丸めた手を口元に添え山彦でも唱えるように叫ぶ。素知らぬ顔で自分を放置し続けていてくれている腹いせとして、常日頃口にすると即座に不服を訴えられてしまう単語を織り交ぜながら。
先に外へ出てからしばしの間は、本日ようやく開花したらしい隣家自慢の桜の木を見ながら時間を潰していたのだが、ジグソーパズルをやり始めたら一分弱で飽きてしまうと云われる飽き性な祥吾を、何の変哲もない静止画一枚に括り付けておく事はやはり無理があった。もとより風情を慈しむ性質でもないと言ってしまえばそれまでだが……。桃色を基調とした静止画には、定期的に、顎元に白髪交じりの髭を蓄えた好々爺の丁寧な解説が付いたけれども、一分単位で時間が経過するに連れ、徐々に祥吾の頭には入らなくなっていった。
「なぁなぁせぇぇぇぇぇ!」
繰り返される催促に七瀬は溜まらず耳を塞ぎたくなる。それくらい祥吾の声は大きい。いや、大きいと云うよりも良く響くと表現した方が意味合いは正しくなるか。
只でさえ人気がなく、物音が響きやすい時間帯だと云うのに、あのような通りの良い声を一身に受ける事はもはやタチの悪い罰ゲームでしかない。祥吾が一つ声を発する都度、周囲の視線を必要以上に自分が独り占めしてしまいそうで――、実際に、辺りを睥睨してみると、家の前を通るサラリーマンや同世代の学生達は決まって自分達を愉快そうに見やっている。じろじろと。まじまじと。好奇な視線に晒されている自分は、まるで火の輪を潜る従順な獅子を思わせた。
「ん――」
とはいうものの、注目される原因が祥吾の声量だけとは限らない。穿った先入観は七瀬の流儀に反する。万が一。億が一。もしかしたら自分の何処かに笑われる部分があるかもしれない。そう思い、七瀬は学生鞄から手鏡を取り出し、今一度自分の服装を見直してみる。
誕生日に祥吾から贈られた紺色の羽付帽子――。
時代錯誤した模範生みたいに恰度良く着こなした碧の制服――。
進学校独特の雁字搦めの校則に身を頑強に縛られているため、年頃になっても彼女は思うままに化粧は施せないでいる。
と、ざっと見た感じ、頭のてっぺんから爪先に至るまで、特段不審な点は見当たらないように思える。姿見で確認して間もないのだから当然と云えば当然なのだが、ひとまず前言は撤回する事にしよう。もしも、が在るとするならやはりそれは祥吾の喧しい声以外に他ならないのだ。
――どうしてあの馬鹿兄はやることなすこと豪快なのだろうか?
ん――、っと、嘆きが籠もった吐息を小さく漏らすと、肩の辺りで綺麗に短く切り揃えられた髪の毛が微かに揺れた。絶好の遠足日和と云えるべく空は晴れ渡っているけど、吹き付ける風はなかなか強い。外に出てから幾度もスカートがめくれそうになるのを直していたりもするので、彼女は、何よりも大切としている帽子が突風に攫われぬよう、ギュッと頭の上を抑え付けた。
さて、祥吾が門にいて、玄関に七瀬がいる。つまり互いの距離はそれほど開いていない。
もちろん、庭を高級外車で往き来するような豪邸に住んでいるわけではないので、大袈裟に見積もっても大凡5メートルとして良いだろう。科学者根性を発揮して正確な数値を測ろうとせずとも、状況的に見れば、彼らが築く距離が、今し方祥吾がそうしたような荒々しさを必要としていないとはハッキリしている。
「あー、おー、もー、聞こえていないのかナナちゃんよぅ!」
だから、そんな大声で名前を叫ばなくても充分聞こえているのに――。
溜めに溜めていた怒りがそろそろキャパシティを満たしてしまったのか。普段は半分しか開いていない七瀬の双眸はグイッと釣り上がり、華奢な体躯が小刻みにふるふる震える。ついでに不愉快極まりない呼名を口にされたため、向かい合う扉に舌打ちを一つプレゼントした。
ナナちゃん、とは、意地の悪い兄が自分をからかう際に口にする呼名だ。
と云っても、言い出しっぺは祥吾ではなく彼の母親である星歌。祥吾を生んだ事は自分の生涯で最大の後悔と云って憚らない近江家の大黒柱は、大切な愛娘をそのような愛称で呼び、文字通り溺愛していた。溺れんばかりの愛情と云う表現は断じて誇張表現ではない。
七瀬を見る星歌の目が尋常じゃないほど柔らかい事からも祥吾は断言できる。目に入れても痛くない、とはまさしく星歌の状態を指す、と。親子の仲睦まじい様子を見る度に祥吾は、自分と七瀬への扱いの差が不平等だと呆れ顔で訴えるのだが、しかし、諦めていた夢を手に入れた星歌が祥吾の抗議を意に介す事はまずない。祥吾も子供ではないので自らの不遇ぶりには折り合いが付いている。一応軽口は挟むけど、期待通りの結果になるとはさらさら考えていない。むしろ星歌が喜んでいれば自分は其れで構わなかった。なにせ七瀬は星歌が切望した夢なのだから――。
当の七瀬は星歌へ多大な感謝の念を払っている一方、ナナちゃんと呼ばれる事については正直なところ快く捉えていなかった。いや、呼ばれ始めた頃は嫌いじゃなかった。どちらかと云うと好きだったのかもしれない。だが、祥吾が悪ノリをするようになって以来、ナナちゃんと云う呼名は彼女の中で忌々しき響きとなってしまった。
中学生の頃も。高校生の今も祥吾はその名を用いる。余りにもしつこく言ってくるものだから、知らず知らずの内に響きの悪い音にも慣れてしまったけれど、だとしても不快なモノは不快に変わりない。どんな時も努めて冷静でいる事から、知人には、七瀬は大人びているね、とよく言われる。でも自分はロボットではないのだ。不満の一つや二つくらい常に胸に抱えている。だけど、兄からどんなに酷な仕打ちを受けたとしても、決して不満を口にしない事こそ彼女が彼女たるべき所以だった。
不愉快な呼び方をされてから僅かなタイムラグの後、在るべき方向へ身体を反転させた七瀬は、裡から湧き上がる苛立ちを見事に隠しつつ、こちらの準備が滞りなく完了した旨をシンプルな行動で示す。あからさまな挑発にカッカするほど子供じゃありませんよ、と云った風に祥吾の元へ歩み寄ってくると、いつも通りの感情の起伏がない顔で、いつも通りの中指と薬指を用いた奇妙なVサインを繰り出した。
「おう、相変わらず準備が遅い奴だな。たかだか身形を整える程度でそんなに時間が掛かるもんなのかね。と、忘れ物はないか?」
くたびれた様子で祥吾が問う。
「――――」
「ティッシュとかハンカチは持ったか?」
「――――」
「今日の水瓶座の運勢は最悪らしいぞ。昼過ぎに池に落ちるとかなんとか。防ぎたいならラッキーアイテムの髑髏のキーホルダーを持てだとよ。
ちなみに僕は絶好調の星七つだ。見知らぬ人に親切にするとなんと妹から小遣いを貰えるらしい」
「――――」
斯様な当たり触りのない問い掛けにも、再度独特なVサインで応えるだけで七瀬は口を開こうとはしない。最後に関しては若干眉が釣り上がった気もしたが、それでも星歌以外には気付かれないほどの僅かな変化でしかなかった。
やれやれ、と祥吾は空を見上げる。朝の陽射しは昼間に比べればだいぶ弱いが、じっと見つめていると目が光りにやられてしまう。時期的に太陽が燦々と輝く日はさほど珍しくないが、今日みたいに雲が見当たらない日はそうそう無い。本当に気持ち良い陽気だった。
彼らの頭上では、久々に訪れた雲一つ無い天気を喜ぶ数匹の小鳥が、小振りな羽をはためかせて自由気儘に空中遊泳していた。やや大きめに見える鳥を中心に据え、その周囲を数匹の小鳥達が離れぬよう近付き過ぎぬよう一定の距離を保ちながら緩やかに飛んでいる。渡り鳥だろうか。鳥類について開けた知識があるわけではないが、ここら辺ではほとんど見掛けない体色をしている。
「あーあ。こんなにも太陽が眩しいや。眩しすぎて涙が出ちまう」
そう言って祥吾はわざとらしく右手で両目を隠す。翳した手の隙間から見えた、誰ともなく甲高い声で鳴き合っている小鳥達の姿はどことなく楽しそうに見えた。
「母さん、僕は今日の昼食はフライドチキンに決めたよ。最低でも七匹は食べてやる」
この胸を征服する気持ちを悔しい以外の言葉で言い表せやしない。比喩として、涙が出てしまう、と言ったけど、なんだか本当に言葉通りの行為をしてしまいそうだった。
……あんな小動物でさえ楽しげに仲間達と語らっていると云うのに、うちの妹と来たら――――いつからこうなのかは知らないが、この子はいつもこうなのだ。
はい、うん、いいえ。幼稚園児すら行儀良く言える単調な社交辞令を彼女は返そうとしない。相手が目上だろうと年下だろうと対応に差違はない。七瀬はいつだって七瀬だ。それも自覚症状がある上での行動なのだから、きっとこれからもこんな調子が続くのだろう。
誰が云ったか鉄仮面。学園で精通している七瀬の渾名はこれ以上ないくらい持ち主の気風を捉えていると思えた。其れを耳にした当初こそは『もしや七瀬は虐められているのでは?』と勘繰り、当分の間七瀬を執拗にマーキングしていた日々を送っていたりもしたけれど、よくよく彼女の身辺状況を考えてみたところ、友人の数が片手で補えてしまう悲惨な自分とは違い、交友関係が呆れるほど大きい七瀬が、今時昔のドラマや漫画でしか見られないような後ろめたい行為を受けているはずはなかった。冷たく聞こえる響きにもそれなりの親しみが込められているのだろう。
だが、仮にそうだとしても祥吾が現状に満足できるかと云えば其れは無理な相談だ。
星歌にも在ったように彼にも夢があった。自分以外の誰かが見れば、炉端に落ちている石を拾うような些細な願望にしか映らないだろうけど、彼にとっては何事にも変えられない大きな夢が。
基本無愛想の七瀬も、近しい人物にはそれなりに柔らかい対応をする。友人達にも。星歌にも。親しい近所の人々にも。もちろん祥吾にも。とりわけ親友二人とは楽しそうに言葉を交わす。七瀬の口数が少ない事を憂いているだけに、少なからずとも遠慮無く付き合える、所謂気心知れた友人達がいる事はとても喜ばしいのだが――それはそれで、みっともない嫉妬心とでも云えばいいのか、祥吾は、七瀬にとっての自分がその子よりも格下とされている事がいたく面白くなかった。
「……お前なぁー、なんでもかんでもジャエスチャー・サインなんかで答えず、そんくらい口で伝えんかい。こういう軽いすれ違いから家庭は崩壊するんだぞ。話し掛けてもうんともすんとも言わない無口な妹を持つと、お兄ちゃんは悲しゅうて悲しゅうて――」
鬱積した気持ちを吐き出すように祥吾は一つ嘆息する。口から漏れた吐息は主の内情とは対照的に見るも鮮やかな純白をしていて、それは買い換えたばかりの高級カーテンのように目映く見え、その実、これからか弱い自分を苦しめようとする意固地の悪い神様からの贈り物なのだからうんざりしてしまう。
暦の上では五月を過ぎたとは云え、この街は春がやってくるのが他県よりもだいぶ遅い。
首都圏ではベストシーズン・イン・ジャパンと謳われる花見の季節も過ぎ去り、いよいよ海千山千の会社員達が恋焦がれていた黄金週間が始まろうとしている。が、これに対し、祥吾達の住む海浜街は今週こそが近所の大公園が大勢で賑わうとする時期だ。
首都とそうでない都市の違いは、空の光の量で量られるだろう。都会に行くと、とにかく空が縦長に感じられる。ビルやマンションの縦の線が空を切り取り、光が地面に届くまでの時間が長いような倒錯を覚える。祥吾はもう一度空を見上げた。此処は空は横長である。空は広く、光の量は空一杯に溢れんばかりに降り注ぐ――つまりは存分に田舎という事だ。
実際問題、首都と海浜は電車で三十分程度にも関わらず、季節感に凡そ一ヶ月の誤差が生じていた。
たとえば、首都圏の学校が春休みに入っている頃、海浜にはちらほらと雪が降り、外を出歩くにはコートや手袋が必需品となる。海水浴に行けるのは八月の終わり頃からだ。祥吾は九月初句に浜辺でラーメンを啜りながら毎年考えていた。しっくりこないな、と。
世間は、海浜街を個性的で独特な街と評するけど、当の住人側が時間がずれている環境を風情と思うには難しく、近未来をモチーフに開発されている割には此処だけが都会と云う憧憬の的からすっかり取り残されているようで――それぞれが歯痒い思いをしていた。
流石に一歩進むたびにさくさくと小気味よい音を鳴らした霜柱はもう無いけど、それでも寒がりな人々には未だ懐炉が必需品となっている。かくいう祥吾も然り。怠け者を絵に描いた風な彼は、悪い意味で他者の期待を裏切らず、今も制服の下には沢山のホッカイロを忍ばせていた。彼がやたらと小遣いを浪費してしまう理由は、なにも沙羅のみに在るわけでは無さそうだ。
口元にある黒子がトレードマークの親友は度々嘆くように言うものだ。近江祥吾ほど怠惰と云う表現が似合う人間はいない、と。たかだか十七年ぽっち生きてきたに過ぎない子供は、彼について尋ねられた際は、この世に根付くあらゆる人種と接した僧侶のように確信を帯びた口振りをするのだ。それを訊いた祥吾は心外そうに『自分はやれば出来る子なのだ』と主張し、彼女に其の発言を即刻訂正するよう求めるのだが、時たま呼吸をするのすら面倒臭いと宣う時点で彼が痘痕も靨状態に陥っているとは云うまでもない。
ふと空から正面へ視界を戻した時、七瀬の姿は既に無くなっていた。影も形もなく、在るのは七瀬の鞄だけ。ハッと我に返った祥吾は慌てて首を左右に振る。すると、お目当ての人物は優に10mは先へ進んでいた。
「――っておいっ! 散々待たせた挙げ句僕を置いていくのかよ! いくらなんでもそりゃドライすぎやしないかい!?」
待ち人に構う事なく独りでに歩き始めた背中を、祥吾の叫び声が追い掛ける。声の大きいからして、間違いなく七瀬の耳に祥吾の言葉は届いたはずなのだが、彼女はさも聞こえていないかのように振り向く気配をい見せない。
通例なら兄妹らしく仲良く肩を並べて歩いていく近江姉妹も、肝心要のお姫様がお冠ではやはり難しかったか。置きっぱなしにされていた鞄は、あれだけの事をしたんだから貴方が然るべき場所まで持って行きなさいよ、と云う意思表示だろう。
「……しかも意外に重いぞ、コレ。そういや部活道具が一式入ってんだっけか」
重いのは何も鞄に限った話ではない。有り体に云うと七瀬は拗ねていた。表情は普段と寸分狂いなく無表情だったけど、内心相当ムスッとしていて――、先程祥吾は口を開けと言ったものの、喋ったら喋ったらでたぶん言葉の節々が刺々しくなる。
でもこれは度重なる兄の不貞さに腹を立てたからとかではなくて、もっと彼女の奥底に潜む““基盤”を揺るがした結果。そして彼女が機嫌を損ねた理由は至ってシンプルだ。真実を耳にした人は往々にして、冷静沈着を自らのカラーとする彼女が意外なモノに執着するのだな、と感嘆させられるはずだ。
置いてきぼりを食らった祥吾はグッと目を凝らして七瀬の後ろ姿を見やる。眼光は猟師みたいに鋭く、遠くのモノに猟銃の狙いを定める時のような物々しさを纏っている。
ターゲットが先行く少女である事に間違いないが、だからといって些細ないざこざを切っ掛けに彼女を殺めようとは考えていない。一応彼は妹想いのつもりでいる。想いに身体が付いてこないのは御愛敬。祥吾は朧気に見える背中を目指し、本日の始まりを生む一歩目を踏み出した。
近江祥吾は視力が0.01と極端なまでに乏しいうえに、厄介な乱視まで兼ね揃えていた。医者によれば云百人に一人いるかいないかの『ナナメの乱視』だそうだ。
それ故、お天道様が頭上で燦々と光を放っている今日日ならまだしも、曇りより下の不安定な天気となれば、コンタクトを装着していないと自分の正面に立つ友人の顔さえ満足に確認出来やしない、まさにナチュラル・モザイクだった。
目の悪さを象徴する一つの逸話として、以前彼は、町中で顔を合わせた自分の恋人を、あろう事か赤の他人と勘違いし、あまつさえ名前を尋ねると云う、百年の恋をも一瞬で木っ端微塵してしまう暴挙を平然と働いた事があった。それも一度ならぬ、二桁は余裕で超えているのだからいよいよ始末に負えない。コンタクトレンズ代を支払う事を必要以上に渋るものだから、いつまで経っても負の連鎖が止まらないのだ。
そういった悪癖も手伝ってか、口下手な妹が学年問わず円滑な交友関係を築いているのとは対照的に、やたら多弁な兄は女の敵とあちこちで陰口を叩かれ、一部を除いた学園中の生徒から煙たがられている。口は災いの元とは良く言ったものだな、と他人事のように笑い飛ばすのもどうかと思うが、ともかく、近江兄妹はあらゆる意味で正反対の学園生活を送っていた。
「……あいつはもっと僕を大切に扱うべきなんだよ。飯を炊き忘れたくらいであんなにプンスカしやがって。僕と飯、どっちが大事なんだっつーの」
衣食住のあらゆる分野に於いて散々面倒を見て貰っている現状、祥吾はこれ以上妹に大切にされてどうしたいのか。其処は誰よりも自己中心的な少年だ。自らの境遇が如何に甘い水なのかなど綺麗サッパリ忘れてしまい、呪詛でも唱えるが如くぶつぶつと文句を零す。
手にしていた四角い物体を怒り任せに食いちぎり、溜飲と共に胃の中へと押し込む。
しかし一口食べたところで食パンを運ぶ手が止まる。あれほど腹を空かせていたのに、過剰に塗りすぎた蜂蜜のおかげで二口目を身体が全身全霊で拒否していた。
「にゃー」
同じくして右足に生暖かい何かが触れる。布を堅い物で擦る音も聞こえた。なんだろうかと下を見ると、いつの間にか祥吾の足下に猫がすり寄ってきていた。先程の三毛猫だ。
「なんだい、食べたいのかい?」
祥吾がこう訊いた途端、猫は嬉しそうに鳴き、その小さな身体をくねらせる。生き物としての本能がそうさせているのかもしれないが、飼い主を持たない流浪の身にしてはやけに利口に見えた。野良猫とは思えない艶の良い毛並みを見ていると忽ち撫でたくなってしまう。そういえば、と祥吾は踵を返した。すると、人知れぬ戦いは猫側の敗北で幕を閉じたらしく、戦地となった三丁目ゴミ捨て場前には清涼感溢れる笑顔をした主婦が活き活きと箒を振り回していた。一仕事終えた人の顔はああいった清々しさを感じさせるものなのか。
「お前さんは運が良いな。いつもならこんなもん食ってないんだぜ? うちのお姫様は大のご飯党なんでな。そりゃあもう阪神ファンくらい熱いご飯ファンなんだ」
「んにゃー」
器用に右手を上げる猫はどことなく祥吾にドンマイと言っているように見えた。
人間様が猫に慰められるのもなんだかなー、と苦笑しつつ祥吾は屈む。たった今、自分はこの世の甘党すら拒絶しそうなくらい甘ったるいパンを食したにも関わらず、口の中は苦いモノが溢れていく。――これだった。祥吾の右手が携えているこんがり焼き加減をした小麦粉の集合体。これこそが七瀬が機嫌を損ねた主な原因だった。
現在の時刻は七時半――要するに彼が目を覚ましてからまだ十五分弱しか経過していない。どんなに早くとも後三十分は家でくつろいでいる近江兄妹は、特別早く出なければならない用事があるわけでもないのに、今日に限っては普段よりもだいぶ早めの登校を決行している。朝食を抜いたのでその空いた登校時間を前倒したのだ。
確かに七瀬は一通りのおかずを拵えた。鮭の塩焼きに若芽のおみおつけ、更には近江家秘伝の卵焼き。祥吾が一階へ降りてきた時にはすでにこれらが食卓に上がっており、あの光景を思い返すだけで祥吾の口内は涎が湧き上がってくる。
手前味噌は趣味ではないけど、贔屓目を抜きにしても七瀬の料理の腕前は凄い。人が列を為すような有名店へ出掛けた経験は一度二度ほどしかない祥吾は、ああいったプロの料理人の足下には遠く及ばないとしつつも、同年代の女の子で七瀬よりも腕が立つ子はいないと断言する。否、七瀬が凄いのは料理に限った話ではない。多忙でなかなか家にいられない星歌の代役として、炊事、洗濯、掃除、と長年祥吾の世話を一手に引き受けている事からも、近江家の至宝と称賛される七瀬への星歌の信頼は厚い。無論、絶対的な才覚の裏には相当の努力があるわけだが――朝も早くから夜も遅くまで、連日連夜部活に明け暮れていた彼女がいつ頃料理の練習などしていたかは至って不明で、祥吾も祥吾で、美味い物が毎日食べれればそれに越した事はないと、それを疑問と捉えた試しはない。いつまでも七瀬に料理を振る舞って貰えれば経緯などどうでも良かった。
ところが、今日は肝心の御飯が食卓に並ぶ瞬間がなかなか訪れない。いつもなら顔を洗い終わった頃には用意されているのだが――、やがて待つ事に痺れを切らした祥吾は、顰めっ面で米の到着時刻がいつなのかを台所へ尋ねた。そして、その数秒後、祥吾にも負けず劣らずの顰めっ面をした七瀬がのっそりとした歩調でリビングに現われたのだった――――空っぽの炊飯器を頭に被って。
彼女がなにをしたいのかは推し量れなかったが、なにを示しているかは一目瞭然だった。米を炊き忘れたに決まっている。でなければ空の炊飯器が其処に存在するはずがない。
几帳面極まりない七瀬が犯した軽率な失態を前にし、祥吾は起き抜けの頭ながらに大笑いしたものだ。それはもう笑った。馬鹿だの阿呆だの散々言った。普段周囲に馬鹿にされている鬱憤を吐き出すよう、ここぞとばかりに言いまくった。……が、しかしすぐに気が付いてしまった。なにがどうと云うわけではない。自分が炊飯器の予約設定を忘れてしまったがために七瀬が珍奇な行動に走った事を。
祥吾が自らの過失に気が付いた刹那、二人の間になんとも言い難い重苦しい沈黙が流れ始める。一秒。二秒。三点リーダを頭上に浮かべた二人を嘲笑うよう、時計の針は祥吾みたいに気怠そうに動く。沈黙はたぶん十秒も続かなかったと思う。でも、その長いようで短い間、祥吾の頭の中をひたすら気まずさと恐怖がぐるぐると駆け巡っていた。
身体の線が細いとはいえ、七瀬は食に対してはやや意欲的だ。調理もさることながら、料理人のサイクルを踏むように食べる方も好きだった。それこそ祥吾が人生に於いて睡眠を最優先する事と同じ感覚なのだろう。
そのような致命的な事実を思い出し、全身全霊を懸けた土下座で謝罪する、朝からハイテンションの祥吾。ただし、普段から兄の迂闊さに慣れている七瀬にとって馬鹿にされた事も朝食が食べられない事もさしたる問題ではない。そりゃせっかく拵えたのだ。残念がらなかったと訊かれれば嘘になる。
かといって良い歳の人間が目くじら立てる程でもない。ごめんなさい。いや、いいですよ。みたいな二言三言の会話で済む話だった。
……だったのだが、出された代用品がパンとなると話は大幅に変わってくる。
基本的に、近江家は緊急用として昨晩のご飯を残しておく決まり事がある。緊急とはもちろん今朝方みたいにご飯を炊き忘れた時を指す。いつ如何なる時も炭水化物が摂れますようにと、兄と妹の間に制定された近江家家訓第七条だ。日本人が朝に口にする物は米しか有り得ない――残念な事にそんな左寄りとも云える断固たる信念を持っている古臭い人間なのだ、近江七瀬と云う女の子は。
そんなこんなを自省している内に祥吾は七瀬に追い付く。気付かぬ内にあれ程ぼやけていた背中がきちんと確認できる位置にまで来ていた。意外と早く戻ってこられたな、と祥吾は少し歩くスピードを落とす。運動部に所属しているだけに彼女の歩調はもっと速いのだが――、なんだかんだで祥吾が並び立つ事を待ってくれていたのだろう。
「――――」
だからといって、劣勢だった戦況が改善されたわけではない。再び彼女の隣を歩いてみたは良いけど、祥吾が置かれている状況はまるで変わっておらず、依然会話が発生しないまま時間だけが無作為に過ぎていく。
――まだ怒っているのだろうか?
罰が悪そうに目を細めた祥吾は、ちらっと左側を見つめてみる。在る、20cm程度の高低差を隔てた先では、一目で深窓の御嬢様を思わせる、セミロングで混じり気のない黒髪をした少女が、可愛らしい獅子のロゴが入ったベレー型の帽子を被っている。
――――とてもじゃないが、身形からして我が妹とは思えないな。
改めて七瀬と云う少女を観察してみると、祥吾の口からは溜息しか漏れてこない。しばしば言われる事でもあるが、自分と七瀬は容姿、性格ともに全く似ていない。しかし自分と似てない事が確かならば、自分の妹である事も事実。七瀬の顔を見る度、祥吾は、この世があらゆる意味で不平等な仕組みをしている事に落胆させられる。
七瀬も祥吾の視線に気が付いたようで、心なしか決まりが悪い顔をしている。困った風に目を泳がせ、気付かれない範囲で祥吾との距離を開ける。それでも、どれだけ長い時間観察されても、彼女の双眸は前方にのみ向けられ、こちらへ顔を向ける意志はちっとも感じられない。
――まあいいさ。向こうが頑なに自分を無視するなら構わない。邪魔してやるだけさ。
自分が原因で斯様な冷戦状態を招いた以上、如何なるお仕置きも甘受すべきとは思う。けど、こんなにも放置されてはいい加減我慢の限界が来る。もとより自制心が圧倒的に枯渇している身だ。ほんの僅かな間の反省さえも望めやしない。
「よっしゃ」
掛け声を一つ飛ばす。一度こうと決めたら祥吾の行動は素早い。
悪戯めいた思考をまとめた彼はなんの前触れもなく七瀬の正面に立つと、
「――っ!?」
驚きで一時停止した彼女の顔をまじまじと覗き込んでみる。それも後数cmで互いの額が触れ合ってしまいそうな距離まで近付いて。いくら七瀬とは云え、これほど近くに寄れば、そう易々自分を無視できないだろうとの見通しだった。
「…………あれ?」
なのに彼女はうんともすんとも云わず淡々と革靴を地面に響かし始める。一瞬こそ表情を崩したのだが、結局は行き着くところは同じ。怒りもしなければ呆れもしない。
目論見を外した祥吾はむぅ、と唸る。怒りん坊指数も此処まで来ると時間が解決させてくれる期待感は持てない。天気との様子か今日の授業とか、無理矢理な話題を振ってみたものの、七瀬は予想通り相槌一つ寄越さない。何気ない遣り取りにも口を開こうとせず、黙々と隣を歩く妹の姿に祥吾は酷くげんなりした。
「食い物の恨みは恐ろしい、か。まさか七瀬相手にそんな古臭い言葉を思い出すとはね」
尤も、互いが一度も言葉を交わさずに学校へ到着するケースなど、年がら年中の恒例行事であるからにして、今更祥吾が苦心するような重大な出来事ではない。はずなのだが――、今朝方、自分があの柔らかな空気をぶち壊す前までは七瀬が珍しく上機嫌だった点を踏まえると、この通学路を歩く短い時間に兄妹らしい遣り取りが起こりそうな予感がしていた。むしろ祥吾としてはそんな展開を切に期待していた。
対する七瀬はと云うと、自分で無視しておきながらも、捨てられた子犬みたいに凹んでいる祥吾を気の毒に思っていた。もともとそこまで腹を立てていたわけではない。粗相をしてなお反省しない祥吾をちょっと懲らしめてやりたかっただけなのだ。そういった意味では彼女の目的は達成された。祥吾のぎこちない立居振舞を見れば明白だった。
――反省しているみたいだし、そろそろ許してやっても良いかな。
祥吾が自分の目の前に現われたのは、そう考えた瞬間だった。
いきなり眼前に現われた祥吾――驚きのあまり胸打つ鼓動が一瞬で暴れる馬みたく激しくなってしまい、下手したら心臓が止まってしまうんじゃないかと心配した。否、実際に止まっていたかもしれない。いつ如何なる瞬間も自分が自分でなければ人間は生きているとは云えない。動揺してしまえば自分は自分じゃない。もう後一秒歩き始めるのが遅れていたと仮定しよう。したらば、自分は間違いなく真っ赤な頬を存分に見せつけていただろう。
眸を閉じ、先程の光景を思い出す。突然目の前に現われた祥吾の顔。許可無く乙女の顔を覗き見るなんて非常識極まりない。それも唇が触れ合いそうになる程近付くなんて――、あの人は本当に女心が理解できていない。
「うぅ……」
捻り出すように吐いた言葉は傍に立っていないと聞き取れないほど小さかった。
基本、七瀬は“自分”を誰かに見せる事を良しとしない。でもあの瞬間を思い返すと込み上げてくる気恥ずかしさを抑えられてなくて――、どうしても地の部分が出てしまう。
眸が――、
頬が――、
胸が――、
近江七瀬と云う未熟な少女を司る総ての器官が激しい熱を帯びていて、いつもは疎ましく思う北風が今は一層と心地よく感じられた。
自分は焦っている。自分は動揺している。自分は自分をやれていない。――うん、大丈夫。自覚症状がある分、頭は平生の冷静さを保てている。されど自分の意志に反し、勝手に高揚してしまった四肢を落ち着かせるには結構な時間を要す。頬の赤みが取れない七瀬は呉々もこの間の抜けた表情を見られぬよう、帽子を深く被り直した。
傍らでは、祥吾がふらふらとした危なっかしい足並みで道路を闊歩してた。自分が取った行動なんて大したことないよ。そんな風に飄々と歩いている。
やはりと云うか自分が如何に不味い事をしたのか認識していないのだろう。
日頃殴られ過ぎて思考回路が破損しているのか、生来そう云う気風なのか、どちらにせよ祥吾は頻繁にデリカシーの欠片もない行動を取る嫌いがある。
彼の物事に対する考え方が常人と大幅にずれているとは充分熟知しているつもりだ。毎日毎日、何気ない出来事の一つ一つに一喜一憂している其の快活な性格に度々巻き添えを食らわされているのだから。
自分とはてんで正反対の性質を持つ少年を喩えるなら自由そのものだ。誤った情報が先行していることが祟り、彼の人となりはお世辞にも大きいとは云えないが、それでも彼は彼と似た明るく活発な人物ばかりに囲まれていて、ふと気が付けば彼の周りは自然と騒がしくなっている。
物事には決まって理由が必要だと七瀬は考える。現に、自分が今こうやって祥吾の隣を歩ける事にも、祥吾が怠けた生活を送っている事にも、きちんとした理由があった。
あの日、祥吾が手を差し伸べてくれなければ今頃自分はきっと違った世界にいただろうし、自分が“近江”と認められるためには祥吾が堕ちなければならなかった。誰かが起こす何気ない動作は一見繋がっていないように見えるが、実は強固な一本の糸で繋がっていて――こういうのを轍と云うのか。今は些細な事にしか思えなくても後々大きな利益を生む事がある。特に人間関係は顕著だ。みんながみんなその人の良い部分を知っているからこそ輪っかに加わろうとする。性格の折り合いがつかなければ人は別々の道を求めるだろうし、気が合わずとも、どうにかその人と分かり合いたいと希うのなら、互いを理解し合うための時間がたっぷり必要だ。
――でも自分達はそこまで時間を注いでいない。事実、自分は祥吾についてわからない事だらけだし、祥吾もまた自分を理解していないように思える。
五年経った今でさえボタンを掛け違えた状態なのだ。だからこそ、あの雨の日、どうして出逢って間もないはずの少年が自分に手を差し伸べてくれたのか――、其の理由がわからなくて、少女は何年も頭を悩ませ続けている。
道中も、丁度自宅と学園の中間地点となる古びた文房具屋の前に差し掛かったところ。
「お早う御座います近江先輩。目映い青色を見ていると先輩の官僚のように汚れに汚れきった心も綺麗サッパリ洗われてしまいそうですね。
嗚呼、本当に素晴らしい快晴です。こんなにも良い天気だと一緒にピクニックに行きたくなりません? 抜け出しちゃいます?」
相も変わらず、音のないひっそりとした登校をしていた祥吾達に割り込むよう、礼儀正しく頭を垂れる女の子が現われた。ちょっと違うか。現われたと云うよりも飛び込んできた。その少女はケージが空いて間もない競走馬のように溌剌と此処へやって来たのだった。
一目散に女の子に駆け寄られる事ほど男冥利に尽きるものは存在しない、とは祥吾の友人の弁だ。彼曰く、そうなった時こそ自分がこの世を悔いなく去れる格好の時だと云う。この持論を教室内で、しかも宣言でもするかの如く仰々しく言っていたため、当然女生徒を多数とした周囲からは冷ややかな目で見られたけれど、祥吾は馬鹿にする事なく素直に共感していた。恐らく天啓でも受けているような気分だったのだろう。首があんなにも勝手に縦に動いた事は後にも先にも一度だけだった。
「あー、なんだ、アレかな」
だが、理想と掲げた甲斐甲斐しい挨拶を受けたにも関わらず、祥吾は怪訝そうに目を窄める。それも道理。彼には、身近な知り合いに礼節溢れる挨拶を繰り出す後輩など存在しない。女生徒、他校となれば尚更だ。こちらへ近付いてくる最中は、制服の色は違えど女の子で在る点を踏まえ、てっきり七瀬の知り合いと思い込んでいたのだが――この子は確かに近江先輩と言った。
でも自分はこの子を知らない。いきなりの急展開に困惑した祥吾は、一瞬、名前を尋ね返そうとしたものの、長らくに渡り、迂闊に口を滑らせたがために凄惨たる結果を招いていた過去を思い返し、喉元まで出掛けていた言葉達を胃の中へと押し戻す。残念な頭とはいえ学習能力はそれなりに装備しているようだ。
「ええっと、おはよう? あの、まー、その、なんだ? ホントに今日は良い天気だね。少年ネロ並に澄み切った僕の心も、この絶好のお天道様の下、大喜びしているよ」
先程受けた無礼な発言をさり気なく修正する祥吾。
「はい。これほどまでの青空を目にしてしまうと、なんだか学校へ行くのが勿体なく思えてしまいます。ふふ、どうです先輩? 先輩さえ良ければ今日はこのまま隣町にでも行きませんか?」
「あ、うん、そうだね。僕も退屈な授業を受けに行くよりもそっちの方が云倍も好ましいよ。今にもその可愛らしい手を取って走り出したい気分さ。そう、借宿が出来るお城にね」
「えっ、嘘、マジで良いの! ……じゃなかった。
――ごほん。では先輩も乗り気みたいですし、渡瀬には今から行くと云う方向で」
「それもいいかもねぇ。知らない人についていっちゃ駄目だよ、とはよく云われるけど、知らない可愛い子のお誘いを無碍に断れるほど僕は無粋じゃないよ」
「に、兄さん……」
慌てて場を取り繕おうとする兄の袖を妹が引っ張る。祥吾は舌こそ円滑に回っているがなにを言っているかが自分ではわかっておらず、本人としては当たり触りのない対話をこなしていると錯覚していた。
「ちょっと……」
この兄の様子を見かねた七瀬は、なにか可哀想なものに出会してしまった風な哀愁染みた眼差しで佇む。それもそうだ。祥吾が数年来の友人に対し、まるで初めて顔を合わせたかのような対応をしているのだから。
「――でもさ、キミ、総合の生徒でしょ? リボンの色からすると新入生かな?
だとするとお家事情を知らないのも無理ないけど、あんましうちの生徒と一緒にいない方が良いよ。それがキミのため。ひいては僕のためでもある」
「え、なんでです? 私と先輩が一緒に歩くと問題が起こるんですか?」
「いや、なんでって言われましても――」
祥吾は言い淀む。理由を問われても、それはそれは阿呆臭い理由でしかないため、いざ真剣に尋ねられてしまうと返事に窮する。席を置いて一ヶ月も経てば其処の所は訊いているものなのだが――さて、どうしたものかな、と軽く首を捻った。
「まぁ一口に言うと仲が悪いからだね」
そして、具体的に説明するにしてもこの一言に尽きる。シンプルだけに小難しい説明の必要は無い。この一言で総てが解決する。
千葉県は海浜街にある、海浜総合と新宿海浜。街の名を冠にするこの二つの高校は非常に仲が悪いことで有名だった。いざこざの主な原因は、新宿海浜に通う生徒のほとんどが高圧的な態度で前者に接していたことで誕生してしまった学歴コンプレックス。それも僅かな差でさも勝者のように振る舞うのだから海浜総合側からしては溜まったものではない。
私立公立の違いはあれど、どちらも県有数の進学校に間違いないのだが、やはり同じ街に拠点を置く人間としては対抗心を過熱させたくなるのか。常人なら気にも留めない事柄にも勝敗を付けたがる傾向が強く見られる。
方や、近未来都市となったこの街が新たに掲げる旗手。
方や、古き良き時代を生きたこの街の誇り。
それぞれに譲れぬモノがあるからこそ、今日も今日とて彼らは、他者には計り知れぬ戦いを生み続けるのだろう。二つの高校を分かつ悪しき風習は海浜総合が誕生した年から続くので、かれこれもう十年以上も啀み合っている計算になるのか――。
当初こそとんでもなくくだらない理由で争うんだな、と自分の高校含め馬鹿にしていた祥吾も、自分が身内で浮いているもっともな原因が如何なるモノだったかを思い出すと、以来学力が要らぬ争いを生むのも已む無しと思うようになった。
ともあれ、この二校。学力で仲違いを起こしている以上、模擬試験が最大の勝負の場として設定されている事は当然ながら、一年に一度催される部活対抗のスポーツ大会はさながら伊国の赤黒と碧黒の蹴球チームが織りなすダービーマッチのような熾烈さを極めている。
大仰に聞こえるだろうが試合ではなく死合。嘘でも脚色でも婉曲でもない。
二高にとって対抗戦はIH並に重要な一戦であり、仮にみっともない戦いをしようものなら、それこそ水に落ちた犬のようにここぞとばかりに容赦なく叩かれる。まことしやかな噂では、対抗戦で敗れてしまった事を契機に、場所関係無しに罵詈雑言が飛び交うようになってしまい、その結果、度重なる批判に心をへし折られた者は憔悴状態となって部活を後にするのだとか。挫折は力になると言うが、此処まで来ると虐めの領域である。
スポーツマンならスポーツマンらしく、競技後爽やかな笑顔を浮かべ、互いが互いの健闘を称えるよう握手の一つでも交わせばいいのに。そうすれば長らくに渡って築かれた不毛な敵対関係にも終止符を打てそうなものだが。
しかし、そうなるどころか事態は年々悪化していき、あまりの不仲故に部活レベルの敵対関係はいつしか平凡な日常生活にも飛び火するようになってしまった。これがまた部活に所属していない一般人には関係ない話なのだから理不尽極まりない。ましてや無関係を主張しても知らぬ存じませぬは通じない。日本人とは、こういう時に限って普段は持ちもしない連帯感を押し出すから困ったものだ。
互いの高校が近所に在る状況では、歩けばすぐに知っている人にぶつかる。ある程度名が知れ渡っている生徒なら、誰が何処で買い物をしていたとか、誰と歩いていたとか、必ず誰かが見ているのだ。それをのんびり肩を並べて登校でもすれば瞬く間に大問題だ。
良くも悪くも祥吾は有名人だった。バスケやサッカー、野球等は古くから親しまれているだけあり、対抗戦に於いても安定した人気を誇るが、祥吾が身を置く競技は他のどれよりも人の目を集める。TVで目にするものよりも技術はだいぶ拙く、分厚いグローブで拳を包んでいるとしても、男同士の殴り合いは実にシンプルで見栄えが良く誰しもの心に火を点けやすい。例年、体育館は一mの隙間も見付けられないほど両校生徒で賑わっていた。
祥吾はあの熱気に包まれた場所が好きだった。けど悪意の標的にされるのは真っ平御免だ。そういった経緯から、祥吾は海浜総合の生徒とは極力関わりたくなかった。今も。
――どうするかね。知っているフリをしつつも、どうにかやり過ごしたいもんだ。
今更評判が下がることを危惧する身分ではない。其処は祥吾も自覚している。が、やはり出来るなら自分を貶める声は永遠に耳にしたくないと願うのが常人の思考だ。
「つまりは学校同士仲が悪いから僕はキミと仲良くなれそうにもない。
なんか意地の悪い両親に結婚を認めて貰えないカップルみたいな会話になっているけど、実際問題似たような構図なんでこればっかは仕方がない」
「そ、それでは先輩は互いの学校さえ親しければ私と付き合ってくれるんですね」
「キミ、ちょっと演技に力入り過ぎやしないかい。出逢って間もない人間の冗談に付き合える事は凄いと思うけど、そんな事よりも自分の身の危険を考えた方が得策だよ。男と違い、女のイジメは陰険さに満ち溢れているっていうじゃないの」
「兄さん、そろそろ」
七瀬がまたも祥吾の袖を引っ張る。
「ん? ああ、お前の言いたい事はわかってる。いくら早めに出てきたっつてもそろそろ行かないと遅刻しちまうわな。ていうか、やっとお前とコミュニケーションが取れたな。お兄ちゃんはもういつ死んでも良い気分だよ。――んじゃ、ここからは兄妹らしく和気藹々とガッコに行こうか」
急かしたくて口を挟んだわけじゃないのに――。祥吾の勘違いを糺そうとした七瀬の右手に何やら温かいものが触れた。祥吾の手だ。嬉しさが極まった彼は無意識の内に七瀬の手を握り締め、通学路をまた歩き始めようとする。もはや謎の少女の正体も、七瀬の頬が真っ赤になっている事も彼の目には入っていない。彼の頭には七瀬をグイグイと前へ引っ張る事しかない。
「……兄さん、違うよ」
けれど、これから妹との会話をどういった風に展開させていくか思い巡らせていた兄の思考を遮すように、七瀬は断固その場から動こうとしない。顔は俯けている。
「んだよ、そんなに炊飯器の予約スイッチを入れ忘れた兄が憎いかよこんちくしょうめ。そこまで御飯が好きならいっそ御飯と結婚してしまえ」
「む、私そんなに性格悪くない」
「ハッ、どうだか。お前は、僕と米のどちらしか選べない状況になったら、迷うことなく後者を取りそうな気がしてただならないよ。しかも一秒で」
「兄さんの言う限定的な状況になる事は一生無いだろうし、私が言いたいのはそうじゃなくて……ううん、もういい。兄さんがふざけていないとわかった」
説明は後回しにして、ひとまず祥吾の手を振り払う事が先決だ。でないと顔の火照りが永遠に治まりそうにない。七瀬は自分を落ち着かせようと一つ息を吸い込み、一つ吐く。息を吸い込むついでに桜のふわりとした匂いが鼻孔を擽った。
「ほほう、キミは随分と僕の手を離したがっているみたいだね。でもお前の思い通りに事が進むと思わない方が良い。人生ってのは得てしてそんなもんだ。
へっ、丁度良い機会だから思い知らせてやるぜ、サイン会を開いたアイドルがどんな心境であのヌメヌメとした掌を受け入れているのかを!」
「そんな気持ちお墓に入りまで知りたくないよ」
「職業柄辞めてくださいとも言えず、相手が空気を読んでもくれず。あまつさえ奴らは空気を読むどころか何十週も列に並び直す始末。そりゃそんな地道な草の芽活動に励むよりも枕業に走りたくなるさね」
「意味わからない」
「これからわからせてやる。そう、この緊張で汗ばみまくったマイライトハンドでな!」
たかが妹と会話する事がそんなにも嬉しいのか――健全な距離感を築く兄妹には計り知れぬ感情だが、彼にとってはそれがどんな幸運よりも嬉しくて仕方がない。徐々にテンションが上がっていった祥吾は、にやりと悪人めいた笑みを浮かべ、暗に今七瀬がしようとしている動作が一筋縄ではいかないと示した。海浜総合の子と話している姿を見られたくなくて急ごうとしていたはずなのだが、今では逆に、通りを歩く人々に自分達の仲の良さを見てくださいと注目されたがっているみたいだった。
やがて七瀬は俯けていた顔を思い切り良く上げ、これまた勢い良く握り合っていた手を振り払った。祥吾の限界が突破したのなら、彼女もまた色々な意味で限界が近付いてきていた。
「ん、おはよう沙羅」
兄のくだらない意地悪から解放された七瀬は、彼の手の温もりを少し名残惜しく思いつつも、話に置いてきぼりとなっていた少女へ十分遅れの挨拶を繰り出す。少女は自分だけ会話に取り残されていたのですっかり御機嫌斜めとなっていた。
「相変わらずアンタのVサインは良くわからないわね。
でも、ま、おはようさん。それとメールありがとね。七瀬が知らせてくれなかったら、危うく待ち合わせが早まったことを知らずに出てくるトコだったよ」
だとしても相手が七瀬となれば怒るわけにはいかない。裡に溜まった苛立ちは綺麗サッパリ水に流す事にし、頭上に在る太陽にも負けぬ燦然とした笑顔で親友と向き合った。
「今日は朝ご飯食べてこなかったからその分前倒しした」
「いや、ちょっと待てよ七瀬。なんでお前ナチュラルに言葉のキャッチボール始めてんの。しかもこの子が沙羅とかなんの冗談さ」
今度は祥吾が間の抜けた顔をする番だ。自分が赤の他人と思っていた子に対し、長年付き添った親友にするように親しげに語らう妹。更には、その小振りの唇が紡いだ名前、沙羅と云う響きを耳にした途端、祥吾は目を見開いて驚いた。
「ひょっとしてひょっとすると七瀬にはこの子が沙羅に見えるのかい? 僕はどっちかと云ったら加藤に見えるよ」
「兄さん、いい加減口調だけで人を識別する癖は直した方が良い。
この子はどう見ても沙羅。せめてにしても絵馬には見えない。あの子はもっと可愛いし、私達と同じ制服」
どう見ても、と簡単に言ってくれるが、祥吾が知っている木住沙羅と云う少女は、たとえ対峙する人物が目上だとしても絶対に敬語を使わない無礼者だ。自分は其処まで沙羅の性格を掴んでいるわけではないけど、少なくとも先輩だなんて心嬉しい名で呼ばれた経験など彼女と出会って早十年、一度たりとも無い。なにも敬われないのは自分だけではない。祥吾と同級の蒼司や瑞樹に対しても彼女は同年代と接するのと同じ風に語り掛けてくる、なんとも心臓が太い子なのだ。
「……朝からキッツイこと言わないでよ。否定できないのが悲しみに輪を掛けるわ」
「善処する。次から真実は極力オブラートに包むよう心懸ける」
沙羅と呼ばれた少女は七瀬の毒舌にも参った素振りはとんと見せず、けらけらと笑って見せた。後輩と妹との遣り取りには、先程まで少女が纏っていた堅苦しい雰囲気がちっとも感じられなくて――祥吾の視界に広がるは、嫌になるくらい見慣れた光景だった。
「オブラートに包まずとも、沙羅は絵馬みたいに可愛いね、とかにはならない? 贔屓とか親友割引とかキムチ風ジャッジとかさ」
「たぶん無理。やってみるのは構わない。けど私嘘付く時は言葉に詰まる。悲壮な口振りで沙羅を誉めても良いならそうするけど」
「やっぱ真実に目を背けちゃ駄目だよね。物事には順序があるもん。
小学生が掛け算を学ぶ時も一の段が終わってから二の段へと進むよね。
うん、まずは瑞樹さん。あの人に勝てるようになってから絵馬には挑む事にする。
アレは超別格。戦車相手に槍と吹き矢で突っ込むようなもんだもんね。互角に渡り合うには経験値が全然足りないや」
「戦車と槍、でも充分温情評価。私見だと戦車と素手」
「お、おまけして戦車とボクシンググローブにならないかな? ……あ、やっぱいい。そんな言い辛そうな顔しないで。すみません、自分ちょっと調子に乗りました」
気に入らない事柄に対しては誰某構わず噛み付く沙羅が、一言も反論せず、素直に敗北を認めるのだから、絵馬なる少女が如何に無双な存在であるのかを物語っていた。
ある人は言う。加藤姉が入学して我が校の歴史は代わった、と。
ある人は言う。ファンクラブが都市伝説と思っていた自分が恥ずかしい、と。
ある人は言う。まさか、ただ手を振っているだけの写真が高額で取り引きされる日が来るとはな、と。
しかし大体の生徒が手放しで加藤絵馬を称賛する一方、祥吾は彼女を苦手としていた。
確かに祥吾も絵馬は可愛いと思うし、あの子は容姿が優れているだけでなく礼節深い。
新宿海浜にはミスコンなんてアップツーデートな催しは開かれないけど、もし開催される運びとなれば満場一致で彼女が女王の座に着くのだとは想像に難しくない。
けれど、完璧超人にも一つ大きな欠点があった。思考回路がずれていると云えばいいのか、一人だけ別世界にいると云えばいいのか、とにかくあの子は何を考えているのか一切理解できないのだ。昔からそうだ。絵馬が起こした珍妙な行動を挙げていけば枚挙に遑がない。
ジャンケンをしたら何故か誰も知らないような形をした第四の手が登場し、期末考査の国語では何故か存在していないはずの第四の村人が回答欄に書き込まれる。
バスケの試合に於いては、右をあっち、左をそっち、と勝手に言葉を置き換え、その方向の定まっていない指示を受けた味方だけに留まらず敵をも錯乱させる。
祥吾がキミは天然だねと言えば、いいえ私は養殖ですよと真顔で答える。
――これが加藤絵馬なのだ。彼女の言動は、創造性が豊かだからで済まされるレベルではない。
ただし、苦手と云っても奇天烈な発想を苦手としているだけで、彼女の物腰や言葉遣いの丁寧さにはかなり好感を持っている。自分の近くにはいつも彼女と対を為す無礼者がいるので、その思いは加速するばかりだ。
そんな加藤絵馬に微妙な感情を抱いている祥吾は、今現在、眼前で笑い合う少女があの明朗活発な幼馴染みとは信じられていないらしく、彼の事情を知らない人が見たら喧嘩を売っているとしか思えないほど目を凝らし、かの人物の確認作業を始める。
沙羅を円周する祥吾の動きが、体育教師が女生徒を舐め回しているような嫌らしい姿を連想させ、なんかとてつもなく嫌なモノを見てしまったな、と七瀬は他人事のように同情した。沙羅も祥吾が自分を見つめていると気が付くや否や顔を思い切り引きつらせる。
でも祥吾は乙女二人の心情など何処吹く風だ。まさしく昆虫観察でもする風に目を細めていた祥吾は、とみに、うん、と納得したような声を出し、清々しいくらい達観した表情へ色を変えた。自分の中に在る沙羅の情報と眼前の少女が一致したようだ。
自分達と違う紺色のセーラー服は、寒々しい気温を物ともしていないように半めくりにされていて、腰元まで伸びたやや茶色混じりの髪の毛がつつやかに揺れている。
常に半分しか目が開いていない七瀬とは逆に、バッチリと開いた眸は気性の荒さを象徴するかのようにやや釣り上がっている。そして、七瀬の誕生日プレゼント選びに付き合って貰ったお礼にと贈った香水。ほのかに香る海の匂いが少女を沙羅と認める決め手となった。時代遅れの表現かも知れないけど、彼女には夏が相応しいと思い、贈った物だった。
「僕の脳内にあるデータによると君は木住さんちの沙羅ちゃんで間違いな――――ッ!」
ところが、検索結果を告げようとした祥吾の言葉が途切れ、序でどさっという音が聞こえた。ハッ、と七瀬が隣を見る。祥吾は視界から消えていた。急所を思い切り蹴り上げられた彼は、糸が切れたマリオネットみたいに炉端に崩れ落ちていた。
「散々他人扱いしておいて偉そうに言うな、このメガトン馬鹿がっ! 私とアンタの間柄でわざわざ観察する必要が何処にあるのよっ!」
懇意にしている幼馴染みに他人扱いされたら腹立ち紛れになるのも無理はない。
みるみる内に頬を真っ赤に染めた沙羅は鬱憤をぶちまけるようにがーっと吠えた。気のせいかもしれないが、彼女の背後にはメラメラと猛々しく燃える炎が見える。
この子は黙っていればそれなりに可愛いのに、性格が手に負えないほど乱暴過ぎるため知人はみんな沙羅を女性に分類していない。男。女。沙羅。世間の評価はこうだ。
祥吾はつくづく思う。この子を嫁に迎える男は相当苦労させられるだろうな、と。いつかは必ず誰かしらが彼女を娶る日が来るのだろうが、そいつには最大級の同情をせざるを得ない。なにせ警察官の両親ですら調教を諦めた特上の跳ね馬だ。ものの数日で不協和音を響かせるに決まっている。
その後も倒れた祥吾へ容赦なく蹴りを入れる沙羅。一発。二発。三発と本当に容赦がない。革靴で蹴られると威力は通常よりも遙かに上回る。日頃鍛えていない人間なら一発一発が致命傷になってもなんら不思議ではなかった。
止めるべき立場に在る七瀬は、早く終わってくれと云わんばかりに空を見上げている。
「ちょ……おまっ……これは……マジで洒落にならないぞ…………」
蹴りを浴びながらも、蹲りながらも必死に言葉を投げ掛ける祥吾。物凄く声を震わせている。角度的に彼女達には見えないが、年甲斐もなく噎び泣いていた。女性には永遠に理解できないであろう痛みには、怪我と二人三脚の生活を送っている祥吾でも耐えられない。
「し、知ってるか沙羅。股間はな、男にとって命に直結する大切な器官なんだぞ」
「知るわけないでしょ。だって私女の子だもん」
「ダウトだ。女の子と云う言葉は七瀬や加藤みたいに淑やかに生きる人間にのみ適応されるんだ。お前はやっぱり木住沙羅だ。女とか男とかの面倒臭い括りは要らない」
「なによそれ、酷くない!!」
「酷いのは、お前だ大馬鹿野郎。つかお前、僕が女子供に手を挙げるタイプの男じゃないことに感謝しろよ。今の世の中、文句一つかましただけで攫われる場合だってあるんだからな。
――七瀬もさ、兄が虐げられているっつーのに知らん顔をしなくてもいいじゃないか……お兄ちゃんは激しく傷付きました」
「悪いのは兄さん」
「そうよ、ぜーんぶアンタが悪い。髪型を変えたわけでもなく。派手な化粧をしたわけでもなく。なのになんでわからないかなー。――って、ああいつものアレか」
と、思い出したように沙羅が呟く。アレとはもちろん祥吾の視力だ。コンタクトをしていない日の彼は目は普段よりもずっと眼光が鋭い。不自然なまでの挑発的な眸で見られている内に事実を思い出したのだろう。そうでなくとも気心知れた幼馴染みなのだ。思い出す前とかではなくて常に覚えておいて欲しい。
自分の態度を棚に上げた祥吾は、涙がある程度引いたところで俯けていた顔を上げる。
依然仇敵と対峙したかの如くじとっとした目つきで睨まれるも、それも束の間、彼女は、祥吾の視力の具合を知り得ている者ならではの切り替えの速さを見せ、それ以上は文句を言おうとしなかった。
「ほら、なんでそんなトコで転がっているのかは知らないけど、制服が汚れちゃうからさっさと立ちなさいよ。そのままじゃ良い見世物よ」
「過ちを綺麗サッパリ無かった事にしようとしているところ非常に申し訳ないが、僕は今し方お前がやらかした暴行は一生忘れてやらないからな。この息子の恨み、墓まで持って行ってやる。ハッ、次から暗い夜道はせいぜい気を付けて歩くんだな。最近のモンスターペアレントは怖いんだぜ」
「なんて器の小さい男なの……」
差し伸べられた右手は取ろうとせず、なんとか自力で立ち上がった祥吾は不満げに鼻を鳴らして沙羅を睨み付けた。しかし足腰が見事なまでにガクガクと震えているので、いくら凄味を利かせても恐ろしさは微塵も感じられない。
「しっかしなんだ、急に敬語なんぞ使い出しやがって。まさかお前に敬語使われる日が来るとは思っていなかったぞ。普段しない事すっからこんな悲惨な結末を迎えるんだ。猛省したまえ」
「あっきれた。もう忘れちゃったの? 自分が先輩と呼ばれたいって言ったんじゃないのよ。なのに可愛い後輩の粋な計らいを袖にするとはアンタはつくづく無礼者よね」
「あ? 僕がそんな阿呆な科白吐くかよ。大方お前の妄想事だろ。十五の身空でメルヘンな世界の住人で居続けるのは辞めたまえ。めっさ痛々しい」
「失礼ね。祥吾君は沙羅ちゃんにね。今日の朝、放課後の確認の電話をした私に帰宅部センチメンタルがどったらこったらと。そういえばアンタ帰宅部じゃないでしょ。寝惚けるにも限度があるわよ」
「寝惚けたくもなるさ。女が一人もいない殺伐とした部活風景は帰宅部と同じなんだよ。あーあ、僕もお前らみたいにバスケットでもやってりゃ良かったよ。そしたら練習後に冷たいスポーツタオルを貰えたかもしれないじゃん」
「そんなくだらない理由でやる気出すとか、ほんっとにアンタは馬鹿なんだから」
いかにも馬鹿にしてますよと云った風な露骨な視線を浴びるが、筋肉質の男に支配された部室がオアシスを強く求めている事は揺るがない事実、日常茶飯事そんな戯れ言ばかり口にする祥吾でなくとも彼と同じ部に所属する生徒なら似通った愚痴を零すだろう。彼らにとってマネージャーとは都市伝説の一つ。毎年の四月、頬を撫でる風はやけに冷たく感じる。
「ん、兄さん。ちょっと後ろごめん」
と、不意に背中を引っ張られるのと同じくして、そんな声がした。足腰が著しく弱っているため、女の子の力でも難なく祥吾の体躯は反転する。
「……つかぬ事をお訊きするが、いきなりなにをおっ始める気だね、キミは」
首だけ振り返った彼が捉えた光景は、自分の妹がポケットからハンカチを取り出し、なにやら始めようとしているところだった。半ば予想していた事ではある。水色の四面体を手にした七瀬は、祥吾の反応などお構いなしに次の動作へと移る。
「いや、だからなにするんだって――」
「いくらなんでも汚過ぎる。みっともない」
制止しようとする祥吾の声を抑揚のない響きが上書きする。にべもない。
「相変わらず説明が足りないなね」
説明が不足しているのなら自分で補え。これが七瀬の取扱説明書だ。祥吾は至る所に茶色い斑点をプリントした制服を見つつ、たはーっと息を吐き出した。やけに背中が冷たいと思っていたら、それもそのはず、自分が豪快に倒れた場所はコンクリートではなく、湿り気を帯びた土だったのだ。自分では確認できない背中はさぞかし盛大に汚れているに違いない。
ほら見たか。七瀬はせっせかせっせと汚れを拭うと共に、物を大切にしない祥吾の在り方に眉を細める。今回こそ沙羅が直接の原因なので祥吾は完全な被害者に当たるのだが、日頃からこんな身体を張った馴れ合いばかりしているから頻繁に制服を買い換える事態を招くのだろうに。
「……言いたい事ある?」
「子供じゃあるめーし、自分でやるから良いっつーの。いくら僕でもさ、流石にこれは恥ずかったりする」
家の中ならまだしも外の世界でまで妹に下世話な真似をさせては、兄貴の威厳は木っ端微塵だ。彼にもまだ人並みに羞恥心は残っているようで、在るか無きかの自尊心保護のため、張り付く彼女を追い払おうとする。だが、なかんずくこういう役割は昔から七瀬の領分だ。身体の奥底に染みついた習慣を当人以外がどうこうできるはずもなく、兄としての尊厳を賭けた交渉は僅か数秒で頓挫してしまう。なんだかな、と祥吾は苦笑した。
最初は腕。次は背中。臀部、膝と続いて最後は胸元へ。七瀬の動作には淀みなんて感じられず、洗練された機械のように滑らかに動く。連想するは職人と云う言葉だ。日頃会話が続かず悩んでいても、駄目な部分だけは兄妹兄弟しい二人である。
……なんか懐かしいな。
感傷に浸るのは柄じゃない。しかし服を叩いた時に生まれる乾いた音を訊いていると、どうしても初めてあの少女と出逢った日を思い出してしまう。
――あれは、ガキ同士のくだらない決闘に巻き込まれた日だったと記憶している。
自分はあの子を沙羅のおまけとしか見ていなかった。まるで、生まれたての雛鳥のように沙羅の後をいつもくっついていた少女。自分を必要以上に恐がり、常に一定の距離を空けていないと挨拶程度の会話も出来なかった。でもあの雨の日。ごろごろと雷鳴轟く危うい天気だった日。あの時も今みたいに泥まみれとなった少年は、たまたま公園に居合わせた寡黙な少女に無理矢理洋服を叩かれ、無理矢理傷の手当てを施されたんだったけか。
今思うと自分は余程酷い怪我を負っていたんだろう。子供同士の喧嘩とはいえ鉄パイプで殴り合ったのはやりすぎだったと反省している。喧嘩するのならば金輪際拳以外でしないと云う念書を星歌に問答無用で書かされた。般若顔の星歌が恐ろしく言われるがままに血印まで押した。指を切って血を捻り出すのは気が引けたが、冷や汗かと思って額を拭った時に付いた血を見て、ようやく自分がどんだけの怪我を負っていたかに気が付いた。
だからだ。だからこそ、少女も自分を放っておけなかったのだ。畏怖する対象だったはずの自分にあの子が近寄ってきた際は一寸呆気にとられたが、ぶるぶる震えつつも一生懸命自分を治療しようとした少女を見ていたら、今まで彼女に抱いていた嫌悪感は欠片もなくなっていた。あの日は、自分達が初めて言葉を交わした日だった。
「……く、くっつき過ぎじゃない? うん、そう、そうよ。密着しすぎよ、アンタ達」
仲睦まじい兄妹愛を見せつけられてヤキモキしてしまったらしく、糺すような口調で沙羅が口を挟む。本人は何気なく訊いているつもりなのだろう。しかし声色は震えているわ、顔は気味悪く引きつっているわであからさまな不自然さを纏っていた。
「そうか? キミの考え過ぎじゃないかい?」
不可思議な笑い方をしている沙羅の手前、一応の否定はしてみるものの――、実際は彼女が言うように自分と七瀬との距離は近すぎる気がする。でも縒れたシャツだったりネクタイだったりを直すには、今くらい近付かなければならないのだから、これは正当な距離感と云える。
「そもそもお前にゃ関係ないだろ。妙な難癖付けんな。せっかくの兄妹水入らずの時間を邪魔しようってんなら只じゃおかないぜ」
「難癖なんて付けてないわよ。――あのねぇ、祥吾。服の汚れ取りなんて自分でやれば済む問題でしょ。良い歳こいた男が妹に下世話な真似させるのはとってもみっともないよ」
言葉のリズムでも取るように、其処で沙羅は患わそうに後ろ髪を掻き上げる。
「ほら、七瀬も。いい加減迷惑でしょ? この馬鹿は言わないとわからないんだし、偶にはガツンと言ってやらないと」
「ん、大丈夫、私は気にしてない」
世間体に沿った然るべき態度を求めるも、沙羅の要求は一秒を待たずして敢えなく拒否される。無理強いされているならまだしも、自らが望んでやっている事だけに七瀬の口振りは実にアッサリしていた。
「あ、え、うーんと、七瀬が気にしなくても世間が良いと思わないわ……きっと。
少なくとも私には情けない駄目男にしか映らないわよ。これって不味いでしょ? そうよね?」
「――? 沙羅の言いたい事がよくわからない。兄さんが駄目なのは昔から」
「最後の一言は超余計なお世話だよ。キミはさらっとすらっと僕を馬鹿にするから困る」
正論らしい正論が沙羅の耳を突くものの、すでに自分の世界へと浸り出した少女にはもう誰の言葉も届かない。七瀬の言葉など右から左へと云った様子で、うんうん、と得意げに首を縦に振った沙羅は、自らの一方的な論理が、恰も全世界を代表しているような口振りをする。
「うん、そうね。祥吾が駄目人間って事は私もわかってるわ。有名過ぎて私どころか全然面識がない人達も知ってる。
けどね、だからと云って七瀬があの馬鹿の世話を焼く必要はないの。此処はイコールで結んじゃイケナイと私は声を大にして言いたい。むしろ七瀬がいつまでもそんなんだから祥吾は情けないまんまなんじゃないの」
「おいおい、キミの言い方だと僕がまるで七瀬に負んぶに抱っこ状態に陥っているみたいじゃないか。一目でご理解頂けると思うが、僕と七瀬の補完性はバッチリなんだぜ」
「みたい、じゃなくて事実そうなんでしょうが。常日頃あんだけ好き放題かましといて自覚症状無いとかマジ有り得ないわよ。アンタももう十八なんだから、いい加減現実とヒットアンドアウェイするのは辞めなさいよ」
「余計なお世話だよ。それに沙羅にだけはそこんとこを説教されたくないね。僕が負んぶに抱っこなら、沙羅は更に子守歌がオプション追加された状態だっつーの。
ハッ、お前の言葉をそっくり返してやんよ。自覚症状がないならアレだな。放課後家に帰ったらまず舞夜に土下座して謝れ。そのデコを畳に擦り付けながら泣き詫びろ。
あいつはいっつも沙羅が犯した粗相を思い浮かべて黄昏てんぞ。見てるこっちが不憫で仕方がない」
「な、なんですって! お姉ちゃんが私を腫れ物扱いするわけないじゃない!」
互いが互いの姉妹に依存しているとはなんとも情けない話である。甘えている対象が姉な分、まだ沙羅の方がマシかもしれないが、凡そ高校生のする事でないとは間違いない。
「お前は腫れ物どころかもはや憑物扱いだよ。木住家に住み着く悪霊さ。
知らないのか? 僕が沙羅の親御さんと顔を合わせるたんび、あの穀潰しを宜しくね、と御願いされている事」
「ちょっ、それ、どーいう意味よ!?
「もうね。僕もしんどいんだよ。スパッと言い切るのも憚られるから、『いや、頭に欠陥が在る子はちょっと……』とはにかみながら言うのは懲り懲りだ」
「其処は任せてください、って言うのがマナーってものでしょう――――って、七瀬は人の忠告を無視しないっ!」
「……ん、兄さんも言ったけど沙羅が気にする事じゃない。止めたいのなら止めたいでちゃんと理由を説明して欲しい。私は時間を無駄にする事が一番嫌い」
「く、詳しい経緯は訊かなくて良いの。今はとにかく離れなさい。異論反論は認めないわ」
「おっと僕が七瀬に負んぶに抱っこって件には盛大に反論させて貰うぜ!」
「アンタは超絶うっさい!!」
沙羅の誤魔化しに祥吾の悪乗り。これではまたも話題がループしてしまう。
これには七瀬もほんの少しいらっとした。意味もなく糺されてはいい加減鬱陶しくもなるか。ただ、沙羅は人一倍勝ち気ではあるが、それでも斯様な、一度こうと決めたら絶対に自分を曲げようとしないエゴイスティックさを呈する機会はさほどない。祥吾に、妄想癖持ちの難儀な暴走機関車、と厄介者扱いされる彼女は普段は割と素直な子だ。否、祥吾の評価が著しく不当なだけで、他の友人達からは、其の持ち前の人懐っこさを駆使して存分に可愛がられている。つまり引くべき場所をキチンと弁えていると云う事である。
じゃあ何故沙羅が自分達の遣り取りに介入して来るのだろう、と七瀬は首を傾げた。
七瀬。沙羅。そして此処にはいない加藤絵馬は幼稚園の頃から親友関係にある。
性格の折り合いが良い彼女らはなにをするにも足並みが揃う傾向が強く、趣味も、好物も、好みのタイプも、所属する部活も大概が一致していた。呉々も示し合わせたわけではない。ただただ自然とそうなる事が多かった。唯一、席を置く高校に関しては、一つしか用意されてなかった部活動の特待生枠の関係上、七瀬と沙羅とで争う事となってしまい、その熾烈なデッドヒートの結果、沙羅のみが悔しくも近場の海浜総合へと入学する折りとなったが、それでも登下校はなるべく一緒にするようにしていた。
「ん、そゆこと」
沙羅に関してわからない事など自分にはない。――そう、理由なのだ。沙羅にはそうする理由があった。それを断片なりとも思い出した時、七瀬の脳裡にはパズルが噛み合った風なカチリと云う音が聞こえた。
「おおっ!」
祥吾は声を荒げて驚嘆した。なにせこの子が笑ったのは約一ヶ月ぶりなのだ。驚かない方が無理がある。空を飛ぶ人間を見付け、水中で呼吸を繰り返す人間と出会した時、依然としていられる人間が何処にいようか。
「な、なによ……珍しく笑っちゃって……。あのね、ついさっき祥吾も言ってたけど、普段滅多にしない事をすると禄な目に遭わないんだからね」
久々に見た七瀬の表情を比喩するなら、新しい玩具を見付けた子供のような純粋さを孕んだ微笑み――天使の顔をした悪魔だ。決して仮面を外そうとしない少女が、その下に隠した素顔を見せようとしている……、これがどういう事なのか。幼少期から培った経験により、これを最大級の危機と判断し、気持ち後ずさる沙羅。一歩、また一歩と後ろへ下がる。革靴が砂利を擦る音が少々耳についた。けれど、背進は止まらない。彼女は細胞レベルで察知している。禄な目に遭わない人物が他の誰でもない、自分だと云う事を。
「ん――」
次に見せた七瀬の微笑みは先程のものとは打って変わって実に妖艶で、淫靡な魅力があった。日頃滅多に笑わない子が笑うとこういった一面が出てくるのだろうか。なまじ容姿が良いせいか、七瀬の笑顔がやけに恐ろしく見えた。それでも仏頂面をしているよりかは云倍も良い。普段からこのような表情をしていて貰いたいものだ、と祥吾は切実に思った。
「なによ、言いたい事があるならハッキリ言いなさいよっ」
「ん、じゃあ、そうする」
にぃっと笑う七瀬。ごくりと沙羅の喉が鳴った。
「――――あのね沙羅、コレはあげないよ?」
悪戯めいた表情をした七瀬はキッパリとした口調で対峙した者へ、とある宣言した後、自らのほっそりとした腕を祥吾のそれに絡ませた。普段の整然とした彼女からは想像も付かない大胆過ぎる行動だった。これを受けた祥吾は妹が繰り出した突飛な行動に声も出せず、完全に為すがままとなる。先程とはてんで正反対の様相に祥吾は驚きを隠せない。
とはいえ、そのような状況に陥っても祥吾は祥吾だ。驚きで頭を真っ白にしながらも一つだけ――せっかく腕を組んだと云うのに、腕にほとんどの感触が与えられなかった事をいたく残念がっていた。身体のラインが細いため年相応のサイズに見えるのだが、実際の七瀬のそれはほとんど起伏がなく、彼女には申し訳ないけどまさしく洗濯板と云って良い。頭にばかり栄養が偏って、肝心の部分に行っていないんじゃないか、とも疑ってしまう。尤も、そう問い掛けた最後、未だかつて見た事もないような鬼の形相で叱られる事請け合いだが――、
「それも良いかもね」
むしろそうしてみるべきなのかもしれない。久々に楽しそうな表情が見られたのだ。どうせならもう一つ贅沢をしたいと思うのが人間の性だ。
怒る、と云えば、祥吾の正面では、頬を赤信号を想起させるほど朱に染めた沙羅が今にも地団駄を踏まん勢いで憤慨していた。なにかしらの物音が聞こえたら、それが地団駄を始める合図になりそうだ。
「コレ私の」
尚も七瀬は告げる。
「い、いらないもん! ていうか欲しいなんて一言も言ってないじゃん!
冗談はやめてよ、七瀬。私にだって選ぶ権利くらい在るんだよ? 誰が好き好んで祥吾みたいな駄目人間を欲しがるか!」
「うーん、お前ももっと歯に物を着せろ。僕だって人間。傷付く時はめっさ傷付くんだぞ」
たまらず愚痴がこぼれるが、もはや祥吾の突っ込みは二人にとって雑音にすらならない。
「言ってない。でも目が凄く怪しかった。じわじわと不穏当なオーラが出てた」
「あ、怪しくなんかないもんね! 怪しく見えたりしたんなら……、ほら、あれよ、あれ。七瀬も祥吾みたいに目が悪くなったのよ。兄妹揃って目が悪いとか難儀ね」
「私の視力は2.0。――でも、まぁいいや。要らないなら文句はないよね」
焦りに焦る沙羅の反応がツボに入ったらしく、どれどれ、と、料理の味見でもするかの如く祥吾の腕を強く握り締めて、更なる悪戯を仕掛ける七瀬。湧き上がる加虐心に征服された彼女は、あくまで平静を装うとする沙羅を煽るよう祥吾と自分の指と指を重ね合わせてみせた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「うっせぇよ! このアトミック馬鹿!!」
沙羅の悲鳴を喩えるなら爆音。フルパワーで解き放たれた咆吼に耐えきれず、祥吾は耳を塞ぎつつも沙羅に負けず劣らずの声量で怒鳴りつけた。
沙羅は性質上、祥吾絡みでよくからかわれる。誰かしらに弄られた時のリアクションは決まって同じだ。まず喪失感溢れる悲鳴を挙げ、数秒前とは打って変わってお通夜みたいな顔色になる。次に祥吾を睨み付ける。でもどうしようもなくて泣きそうになる。これで終わり。蛇足するなら下を向いてふるふる震えたりもする。
「だだだだだだだだだって、だって、だって…………」
だっても糞もないだろうに。怖い物無しの強心臓の癖に、どうして手を繋いだ程度で大慌てするのか祥吾には解せなかった。
<<時間なので続きはまた明日以降にでも>>
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