T.演劇開始

 

 予定よりも早く微睡みから覚めた近江祥吾が真っ先にする事と云えば、もう数分したら自分を起こしにくるであろう妹が現われるまでの間、眸を閉じている事だった。
 高校三年生にも成って妹を目覚まし時計代わりにするなど、年頃の人間の行動からは大いに逸脱している感は否めないも、それが最低の行為だとは彼も充分自覚している。
 しかし自覚してはいても依然改善の余地は見られないのはどう云うわけなのか――――骨の髄までぬるま湯に浸かっている人間だけあり、答えは至ってシンプルだ。
 幼少の頃より自分の足で歩く事を周囲に口五月蠅く諭された彼は、その都度聞こえないフリをするよう耳を塞いでいて、そしていつの間にか齢が十七となっていた。ただそれだけの事。身体の何処と云うわけではない部分に染みついてしまった習慣を正す事はもはや不可能の域に突入、切っても切り離せないイコールの関係を築き上げてしまった。
 尤も、彼が妹に任せている仕事は目覚ましだけに留まらない。
 良識在る常人は俄に信じられないだろうが、家庭を廻すために必要なあらゆる家事に於いて、この家は全部が全部妹におんぶに抱っこな惨状を呈していた。こうやって彼が呑気に夢現でいる今も、彼の妹は台所で淡々と自分に課せられた役割をこなしている。
 今日の朝食はなんだろう、と未だ覚醒しきらない頭ながらに思い巡らせる。
 彼の選択肢に共同と云う言葉が加わる瞬間は永遠に訪れない。其処に連なるは、どれも為すがままに妹にもたれ掛かようとする恥ずべきモノばかりだ。
 唯一言葉を届かす事が出来る立場にいる妹も、自立心が喪失しきった兄を突き放す事も叱責する事もせず、それが自分の運命なのだと甘受してしまっている。
 故に、彼が妹に生活面で依存している事に対し罪悪感を覚えないのもある意味道理。感覚的には政治家の金銭問題が一件から二件に増えた事と同じような、いわば日常性を孕んだ瑣末事なのだろう。
 家名を重んじる親族から出来損ないと揶揄される事は日常茶飯事だ。自分が自由気儘に生きているせいで妹が必要のない過度な重圧を受けている事も知っている。
 ――でも僕はそう云う自堕落で酷薄な人間なのだから仕方がない。
 ベッドの中で亀みたいに丸くなる彼は今日も今日とてそう開き直る。
「……まだ少し眠れっかな」
 だらしのない少年は思考を働かせる事を止め、身体が強く求める欲望を生のままに受け入れようとする。いい感じに意識が解れている。これなら再度深くに墜ちるまで十秒も掛からない。彼は思う。いつだって二度寝は最高に心地よい。身体が雲の上の世界を遊泳するようで。自分だけがこの世の幸福を一身に受けているようで。いつしか彼はこれを特権と呼んでいた。いつもより早めに起きた自分へのご褒美なのだと。
 それにそろそろ春眠暁を覚えずと云う諺が適用される時期だ。祥吾は丁度良い言い訳が出来た事にほくそ笑む。言い訳と云うよりも年端もない子供がするような無茶苦茶な論理だが、自分を甘やかすための免罪符を常に欲している彼は、たとえそれが一瞬で看破されようとも冷ややかな視線で睨まれようとも興味がなかった。
 穏やかに晴れ渡った春の空が他の三季節よりも幾分か眠気を誘うのは確かだ。
 カーテンの向こう側に在る世界は白く目映い輝きを増していき、本日が素晴らしい天気になる事を約束している。暦も五月に入り、春がやってくる時期が他県よりも大幅に遅れるこの街にもようやく柔らかい陽気が訪れた。
 祥吾は欠伸を噛み締める。二度寝を許されるほど時間に余裕があるのかはわからないけれど、やはり下の方から金具が擦り合う音が聞こえるので七時前後と見てまず間違いない。となると一階へ降りるにはまだ時期尚早。今は束の間だけど時間の許す限り微睡みを楽しめばいい。
 
 しかし、そんな矢先、枕元に忍ばせていた携帯電話に睡眠の邪魔をされてしまう。
 眸を閉じて大凡十秒。意識がぼやけてきていよいよこれからと云ったところで、後頭部が規則的な振動に揺らされてしまった彼はうんざりとして一つ舌打ちした。
 誰だよ、こんな朝に電話を掛けてきやがるあかんたれは。そう内心で悪態を付いてみても、電話の主が誰なのかなど液晶を見みずとも見当が付く。
 もともと彼に電話を掛ける人物が片手の指だけで補える数しかいないと云うのもあるが、それを抜きにしても一人心当たりが在った。
 取るべきか。取らざるべきか。脳内に存在する陪審員は圧倒的に後者を支持している。かといってそうしてしまうと今度は後々面倒臭い問題に発展する可能性が高い。
 やがて二者択一に答えを出した祥吾は、物憂い動作で携帯電話をベッドの中に引きずり込むと、眸は閉じたままで電話を耳に当てた。
「――起きてるよね?」
 想像通りの人物が平生とは反した低い声で問うてくる。まるで恫喝する風な響きだ。
 この一節だけで、受話器の向こう側にいる彼女がどんな顔をしているのかが絵に描いたように理解る。語感的には、『起きている?』ではなく『早く起きろ』と言っているようにも感じられた。
「微妙な線だな。折角の二度寝を妨害されたんだ、お前の言葉次第じゃ即刻微睡みの世界へ飛び立つ予定でいる。つまりは状況に釣り合わない理由で電話したとか言わないでくれよってこった」
「あんたじゃないんだから朝の貴重な時間にそんな馬鹿な真似しないわよ。
 ちょっと昨日約束した事の確認をしようと思ってね。一応の段取りだと隣駅まで行く予定でいるから、ちゃんと電車代を用意しておきなさいよ」
「いや、ちょっと待ってくれ。いきなり約束とか言われてもわけわからん。昨日僕がお前と何か約束したのか?」
「したじゃない、約束。英語で云うとプロミス。昨日の夜あれほど言ったんだもん、まさか忘れたとか言わないでしょうね?」
 約束……約束……約束……、と数秒もの僅かな間、その二文字をひたすら反芻し続けてみた所、朧気ながらも昨晩の光景が記憶の隅から浮き上がってくる。
 次第にとある事を思い出した祥吾は、やれやれ参ったな、と罰が悪そうに頭を掻いた。
 どうして、昨夜、遅くに彼女が電話を掛けてきた事を失念していたのだろうか。話の尻尾だけでも覚えていればこの電話は取らずにやり過ごしたのに。――いや、違う。後悔すべき点は其処ではない。悔やむのなら今日ではなく、昨日の電話なのだ。
 木住沙羅と云う少女は突然何かを思い立つと、兎にも角にも祥吾にパーッと話の全容を訊かせるのである。祥吾が訊いているかどうかはお構いなし。祥吾も慣れているのでうんうんと適当な相槌を挟むだけ。さながら企業のクレーム対応を想起させる遣り取りだ。
 ただし、稀にそうした義務的な対応の弊害が出てしまう事もある。それが今日。
 はいはいそうですねとただただ散漫に受け答えしていたがために、迂闊に交わしてしまった約束――なんでも本日は彼女が贔屓にしているバンドのアルバムが発売するから放課後ショップまで付き合って欲しい、だったか。
「……ああ、今思い出したよ。でもこれから忘れようと思う。お前も昨日の僕は偽物だったと思ってくれ。今日の放課後は速攻うちに帰って惰眠を貪るとたった今決めた」
「なにそれ。寝惚けてんのアンタ? つか乙女との約束を反故にしようとするとかマジで死んでしまえ」
「朝っぱらからキーキー甲高い声で吠えないでくれると有り難い。一日の始まりを告げる音がお前の声じゃ僕のテンションは俄然下がるばかりだ」
「ふん。どうせ私は絵馬みたいにお淑やかじゃないですよーだ」
「ああ、それは知っている。今更過ぎる発見だな。
 僕としても沙羅じゃなくて加藤が幼馴染みだったらどんなに楽だろうかと思った事は多々ある。少なくとも彼女はどんなに親しくとも年上には必ず敬語を使う。はい、ここ重要」
「あら、意外。そういうの興味ないよ、てな顔してる癖に敬語なんて使って欲しいんだ」
「帰宅部的センチメンタルって奴かな。後輩が欲しいと思う時が稀にあったりなかったり」
「あはは、ばっかみたい」
「男の性をそう馬鹿にしなさんな。女のお前にはわからんだろうが、これはなかなか馬鹿に出来ないもんなんだぜ。
 ――っと、それよりもそろそろ身の回りの事をしないと遅刻しちまう。切るぞ?」
「ええっ、時間はまだあるじゃないのよ。しかも返事訊いてないし」
「余裕があると思えるのはお前の家が学園の近くに在るだからだ。返事については道すがらいくらでも訊かせてやるよ」
 祥吾はそう告げ、渋る沙羅を無視しして電話を切った。
 どうせ後一時間もしたら顔を合わせるのだ、効率性と電話代を考慮すればそちらの方が云倍も良いに決まっている。だが、そう諭した所で彼女が無駄手間を好もうとする事に変わりはない。理由はよくわからない。わからないけれども、祥吾は彼女が馬鹿だからだろうと結論付けていた。
 これでもだいぶ改善されたのだ。以前は時間帯問わずもっと長い時間言葉を交わしていた覚えがある。――そうだな、彼女が携帯電話を買って貰って間もない頃は特に酷かった。
 今日は何があって明日は何がある。事ある毎に報告してくる彼女。新しい玩具を自慢する子供の如き振舞に、日がな一日祥吾の携帯電話は騒々しい音を鳴らし続けていたものだ。
 
 受話器を首に挟んだまま制服の袖を通していると、ドアに数回のノック。それは祥吾が起きているか確認する音、朝食の準備が整った事を知らせる音である。
 祥吾はまだ着替えが済んでいないものの、いいよ、と短く返事を返し、彼女を部屋へと招き入れる。祥吾が返事を返さない限りは彼女は部屋に足を踏み入れない。絶対にだ。
 平成も十九年になった今、そんな在って無いような形式は遵守しなくても良いだろうに、と祥吾は常々思っているのだが、だとしても人一倍律儀な彼の妹は古き良き時代の淑女で在ろうとする。
「起きて………………るみたいだね」
 抱き締めたら折れそうなくらい華奢な体躯をドアの僅かな隙間に滑り込ませるように入ってきた七瀬は、電話を耳に当てながら着替えている祥吾の姿を見るや、都会のど真ん中で猪でも発見した風な瞠目した顔付きで首を傾げた。
 こうなるだろうな、と予想していたとは云え、こうもあからさまな態度を取られてしまうと祥吾としてはちょっぴり傷付く。自分の交友関係の狭さを妹にすら心配されているようで……なんていうのか、こう胸がギュッと締め付けられてしまう。
「ああ。おはよ、七瀬。今日も準備が速いね」
「ん……おはよう。珍しいね、兄さん。電話してたんだ」
 制服の上に蒼一色のエプロンを纏った少女は、案の定、疑問を投げ掛けてくる。
「僕だって電話くらいしますとも。それともなにかね、キミは電話もしない男が酔狂で月々の電話料金を払っているとでも言うのかね」
「揚げ足を取るのは良くない。機嫌悪い?」
「そりゃ朝も早々に沙羅の声を訊かされりゃ誰だって機嫌は悪くなるさ。それこそラテンな音楽家がショックのあまり鎮魂歌を歌いたくなるようにね。なんでかな、あいつの声は脳天に深く突き刺さるんだ」
「電話、沙羅からだったんだ……。あの子、兄さんに何の用事だったの?」
「確認だそうだ」
「確認?」
「うむ。放課後渡瀬まで行かないかだとよ。ま、あいつの場合、誘うと云うよりも徴集なんだけどな。しかも約束を破ると翌日からしばらくの間ひたすら呪詛を唱えているから厄介だ。お前も行くか?」
「部活。じゃあ兄さんは夕飯要らない?」
「要らないと云えば要らない。用意して置いて欲しいと言えば欲しい。そこら辺は七瀬の判断に委ねる」
「私に任されても迷惑。自分でどっちか決めて」
「んじゃ、一応用意しておいてくれ。よくよく考えると今月はもう小遣いピンチだし、迂闊に贅沢は出来ないや」
「ピンチって、お小遣い貰ってまだ一週間しか経ってない」
「散財に時間なんて関係ないのさ」
 フッ、と自虐的に笑う祥吾。そりゃ笑いたくもなる。今日日使うであろう1000円を消化してしまうと彼の財布にはもう数十円しか残らないのだから。
 他人様の都合を無視してまで誘う以上、交通費くらい代わりに支払ってくれても罰は当たらない。むしろそうするべきだと祥吾は強く提唱する。けれど彼女に其れを望むのが無理な相談だとも重々承知している。それどころか、残り僅かな残金をもせびってくる事もあるのだから馬鹿らしくてやってられなくなる時がある。
 自分の財布事情を今一度振り返ってみると深刻な氷河期に突入している原因は総てあの子にあるように思えた。
「にしても、あいつはやっぱり馬鹿だね。もうちっとしたら顔合わせるってのに電話なんか掛けてきて」
「しょうがない。沙羅は猪」
「今日は随分と喋るな、お前」
 踵を返して部屋から出ていこうとする七飯に祥吾は率直な感想を述べた。彼女は一瞬、足を止めたが、しかし何も言わずそのままドアへと向かう。
 何か良いことでもあったのかな、とズボンを履きながらそんな事を考えている内に彼女の姿は無くなり、カツカツと階段を下りる音だけが小さく木霊する。
 ほんの二三言の遣り取りしかしていない現状では、彼女が多弁とは到底思えないだろう。
 されど彼女にとってはこれで充分多弁なのだ。
 口数がやたら多い祥吾とは対照的に、学園で鉄仮面との異名を授かる程ほとんど喋らない七瀬が、こんな風に舌を廻す時は決まって機嫌が悪いか良いかのどちらか。それを判別する際祥吾は七瀬の動作に注目する。
 ただ、先程の様子からすると御機嫌とまでは行かなくとも上り調子にある事は明白だ。
 上機嫌な時の七瀬は人指し指だけ立てた右手を耳元でくるくると廻す癖を持っている。先程も然り。本人曰く、意識していないので何故そういった行動を取っているのかはわからないらしいが、本場の音楽家達がしばしそうするような規則正しい回転は、日頃滅多にお目に掛かれない稀少さを持っている。
 七瀬は喜んでいようが悲しんでいようが裡に抱えた感情を表に出せない不器用な子だ。
 その彼女が機嫌が良いと、どうしてか自分まで嬉しくなってくるから不思議だった。
 
 
 
<<描いている内に時間が来たので続きは明日以降>>
 
 

   
       
       

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